夢を見る男

最近、ある場所でふつーに女の子と話をしてみた。
さして下心があったわけではないのだが、どうも食いつきが悪いのだった。わたしは案外そういう反応が寂しいらしい。
しかし、自分の身分や年収などさりげなく会話に織り込んでいくとがぜん態度が変わってくる。とどめに「もうすぐ上場も考えてるんですよ」とあながちウソではないが希望的観測99%の将来を語るに至って「スッゴーイ」と言わしめて・・・ちょっとがっかりしたのである。


そもそも、自分の身分や年収などは自分の属性の一部に過ぎない。しかも、他の属性について食いつきの悪さを確認したあとで食いついてこられてもナンダカナーである。
そして、まだ準備にも入っていないIPOの話になったとたんにえらい食いつきようなのである。つまり、素の自分はダメダメで、オプションの身分や年収などで突如購買意欲が刺激され、夢を見させるに至ってご購入となるのである。


これでは、中身のない商品を売りつけるマーケッターの完全勝利ではないか。
実際、話しながらも最後のとどめを放つに至ってはスコアをごまかして優勝したプロゴルファーのような情けない気分だったのだ。


とはいうものの、素のダメダメさについてはこれはしょうがない。生まれつきのイケメンや生まれつきのお笑い系ではないのだから。その点には悲しい自信すらある。
それに、自分は人生をこう考えるだの、こんな体験をしただの、友人がたくさんいるだの、それらは結局のところ身分や年収とさして変わるものではない。
人とは属性で評価されることを拒否できないし、拒否すれば素のダメダメさを認めてとっとと死んでしまうくらいしか、残る人生やることがないのである。
人は属性こそ重要なのだとしたら、身分や年収も立派に重要なのであろう。そんなものよりも精神的な・・・・などと考えるのはかえってフェアではないだろう。


それは、とても精神的に優れた人物だが身分も年収もない人と、全くおなじく精神的に優れた人物でなおかつ身分も年収もずば抜けた人のどちらがいいかを考えればすぐに答えのでる話なのである。


これも事実として受け入れるしかないのである。


しかし、こんな厳しい現実を受け入れても最後にもっともやっかいな問題が残っている。


時に「将来の夢」があらゆる属性を上回ってしまうことがあるのだ。


素の自分を愛して欲しいなんていうのは、単なるわがままに過ぎない。数ある属性の中でも実質的利益を女性が優先するのであれば、わたしのように精神性に十分すぎるくらいの属性を備えていてもなおかつ身分や年収にこだわって生きなければならず、それも致し方がないとあきらめているのに、そこへ「夢」登場、いきなりの首位。それはないだろう。


こうして、「夢」やぶれるおろかな男が数知れないのと同じくらい、男の夢に裏切られる女性も数知れないということになるのである。


しかも、こんなことはすでに古来からずっと言われ続け、「夢を追う男には注意」と何万回も忠告が繰り返されているにも関わらず、なのである。
もし、わたしが神様なら、女性の脳をこんなふうにチューニングするであろうか。
もし、わたしが父親で(もしどころかふつうに父親なのだが)娘を製造するときに脳みそをチューニングできるとしたら、決してこのようにはしなかっただろう。
なのに、なぜ神はこのようなことをしでかしてしまったのか。


考えられる合理的理由はひとつしかない。


それは、夢を追う男をなにがなんでも挫折させるわけにはいかないからである。
たとえ、その結果一人の女性が、あるいは数知れない女性が、その夢の挫折のために不幸に陥ったとしても、次の一人が夢を成就させれば、人類全体に大きな貢献となるからだ。


無謀な男の夢に惹かれる女性、それは


人類の進歩に捧げられた、エサ、なのである。

 サービス業

こうやってPCに向かって日々考えたことなど綴ってすでに20年の歳月が流れた。
最初のPCはPC9801RAで初の32bitマシンだった。
モバイルではPC9801Nシリーズを使っていた。こちらは16bitマシンでクロックは10MHzである。現在の機種(ThinkPadT42P)が2GHZで32bitなので現在のマシンは当時より400倍ほど早くなっている。
メインメモリは2Mから1Gに増えているのでおよそ5000倍である。


で、やってることはというと、果てしなく無駄思考を繰り返しているばかりなのである。


実際、当時のノートパソコンでも書くだけなら同じ環境か、あるいは当時の方がある面では環境が優れていたかも知れない。


確かにあの当時は環境オタクという言葉があったりして、自分のPCのメモリの1Kバイトも残さず使おうとしたり、仮想386モードを駆使して2重3重にアプリケーションを起動したり(当時は神業と呼ばれた)、ハードディスクがない環境でよくあれだけのことをやったもんだと思う。フロッピー一枚分(1.25M)のRAMディスクだけでOSからアプリからすべて起動していたので起動は早かったし、WTERMのマクロとVZエディタのマクロで文章の作成中にもBBSを巡回して指定のフォルダ(当時はディレクトリと言った)に切り分けたりした。


当時の通信環境は1200bpsだった。
半角なら一秒間に1200文字送れるよという意味だ。
今は実測8Mbpsなので8,000,000bpsだ。何倍なんだろ。
というより、一秒間に8百万文字送信しても読めんだろ。と思うのだ。
1200bpsでさえかなりつらかったがまぁサーバーが遅くて読めたりしたが。


最近は文章を書きながらも、なにか迷うとぐぐったりして、知識ベースとして非常に空間は広大になった。それは数百とか数万という倍率では表せない広さになった。
だが、同時に、いろいろ調べているうちに本題を忘れて時間を浪費することが多くなり、結果的に文書作成にはあんまり寄与してないかも知れない。


これだけ早くなったはずのクロックも、なぜだかPCそのものの反応はもっさりしていて、過去の環境オタクのころのわたしだったら決して許せるスピードではない。


では、いったい、このすごすぎるPC内で何がそんなに動いているのか?


それは人間の命令なくしても動けるもの、である。
そのほとんどはウィルス駆除ソフトだったりする。(ノートン君頼むよほんと)
それを含む、いわゆるサービスというものだ。


PCにとって、一次産業とは人の命令で動くアプリケーションであろう。
農業が自然の恵みなくしてなにも得られず、生存と存在意義に直結するのと同じく、PCに人の入力なくてなにも始まらない。
PCにとって、二次産業はデバイスドライバ類で、人に豊富な道具を与える。最初は一次産業を効率化するためのものだったが、いつしか、過程が目的化してしまった感があったりして、現実の二次産業と似てたりする。


そして、三次産業がサービスの類なのだ。


三次産業はアプリケーションのようなソフトウェア資源も、周辺機器のようなハードウェア資源も必要としない代わり、クロックリソースを食い尽くす。
あたかも、人が遊びに時間を食われてろくに眠ることができなくなったのに似ている。


しかも、ウィルスというサービスからシステムを守るサービスやら、その基本ソフトを自動でアップデートするサービスやら、とにかく不信と怠惰がさらなる不信と怠惰をもたらす悪循環の権化と化している。
まるでテロや凶悪犯罪におびえて、ひたすらにアリコの保険や防犯グッズや軍事費に大きな出費を強いられるのに似ている。


こんな間違いはたぶん、二次産業でモノを売る連中が、夢を売り始めたころからはじまっているのである。
これを使うとすばらしいと宣伝するのは、これを使わない人生はみじめなものになると脅迫しているに等しい。(勝手に改造くんが指摘してるわけだが)
三次産業はそのものが脅迫だといっていいだろう。
ディズニーランド、海外旅行、インターネットにハイビジョン放送。
そして、探偵業にセキュリティ産業。
三次産業の提供するのは夢と同時に不安でもあるのだ。
実際の被害の総計よりも多くの金銭をその予防のために費やすことに疑問さえもてなくなってしまう。


次のWindowsの目玉もセキュリティとプライバシーである。
しかし、そのWindowsがまともな速度で動くPCがまだ発明されていないのだ。


すべては、猛威と脅迫に耐えるために捧げられるのである。


今日のカウンタ:26854

 収穫逓増

荒れ果てた荒野に希望に燃える入植者A氏とB氏がやってきた。
彼らは仲良く隣同士で畑を耕し、わずかな麦を蒔いた。

それから一年後、A氏とB氏は互いに収穫を得た。

ただひとつ。A氏は、B氏よりわずかに多く、ほんの一握りの麦を余分に手に入れることができた。
それは、まったくの偶然だ。土地も環境も、二人の努力にもまったく差がないにも関わらず、ある程度の面積の畑を収穫したとき、収量がぴたり同じということは逆にありえない。ただそれだけの理由で、A氏はB氏よりわずかに多く収穫した。

そして、すぐ二人は次の収穫のために、食べるのに必要な量を残して、残りのすべての麦を畑に蒔いた。

数年後、A氏の畑はB氏の畑を完全に取り囲んでしまい、さらに広がり続けている。
B氏は入植当初とほとんど同じ畑から、ほとんど同じ収穫を得ていた。

たった一握りの麦は、一年でおよそ20倍の格差になり、さらにその格差が毎年20倍づつ広がっていった結果なのである。


これが経済学で言うところの収穫逓増の簡単なイメージだ。


最初はわずかな差でも大きなレバレッジがあれば急速に格差が広がってしまい、市場が占拠状態となる現象を指して言う。

アダム・スミスは、収穫逓減と完全合理性で経済は成り立っていると言った。
そして、近代の経済学はそれを基として成長してきたのだ。

収穫逓減とは、こういうことだ。

A氏が麦で大成功した。こういう話はよく伝わる。
そしてまたたくまに、国内で麦生産ブームが起こってしまう。
誰もが成功したいと思うからだ。
やがてこのような多くの人の努力の結果、麦の価格が暴落し、麦生産のうまみはなくなってしまう。
がんばっても報われないという法則が経済学では100年も信じられていたのだ。
(社会道徳と経済学が逆のことを教えるのはめずらしいことではない)


しかし、この収穫逓減は完全ではなかった。
VHSが性能やサイズで優位にあったベータを駆逐してしまったように、タイピングスピードでは最速を誇っていた親指シフトキーボードがタイプライターのキーがぶつからないためにわざと打ちづらく配置されたDFGHJキーボードを駆逐できず廃れてしまったように、ウィンドウシステムではアップルにはるかに出遅れたマイクロソフトが市場を制覇してしまったように、収穫逓増と言える現象はそこかしこに見られる。

多少不恰好でも、がんばれば報われるとこの現象は力強く言っている。


ただ、たいていは報われないことの方が多く、アダム・スミス死してなお侮りがたし、なのである。

 勝者の原理

あなたに今、着るものと寝る場所と冷蔵庫に食べ物があれば、世界の75パーセントの人より恵まれています。あなたが銀行に少しでも預金があり、サイフに小銭が入っていれば世界で最も裕福な8パーセントの人の中に入ります。コンピュータを持っているなら、あなたは世界で100人に1人の恵まれた人です。


有名な100人の村の一説である。有難いことにわたしは世界でも1%の部類らしい。
また、これ以前にも、この世の富の97%は3パーセントの人に集中している。などという比ゆもよく聞かれた。
株をやる人の90%は損をしている、という話も(証券会社は表立って宣伝はしないが)実は決して大げさな話ではない。


この世は決して平等などではなく、富は(つまるところ幸福は)偏在し、一人が笑えば九人が泣くようにできているように思われる。
なぜこのように世界の富は偏るのか。
またそこには、弱者を踏みにじる強者の悪意は存在するのだろうか?


実はこのような富の偏在、つまるところシアワセな人と不幸な人の比率は政治や金持ちの強欲ではなく、弱者から0以上の取り立てをしない紳士的なルールと単純な数理的問題、「幾何平均」によって決定されている。


ほとんどの富は複利効果を持っている。
富は年利(あるいは日利)で増え、増えた分も含めて翌年さらに増える。
この複利効果を考え出した人が天才か、あるいは魔物であったのだ。


「天才数学者株にハマる」からおもしろい例をとってこの複利効果を考察してみよう。


あなたは1万ドルを持っているとしよう。
そして完全に公平なサイコロで、偶数が出たらあなたの勝ち、奇数が出たらあなたの負けになるゲームに参加する。
ただし、あなたが勝てばあなたの1万ドルに80%の金利がつき、負ければ逆に60%の金利を差し引く。これを毎週1年間52回続けて行う。
一回の抽選結果の平均利得は(80%+(−60%))/2で計算できるつまり、10%の得になる。
あなた以外にも世界のほとんどの人がこのゲームに参加している。
平均して10%得になるのだから、誰も異存は無いはずである。
これが52週続くと複利計算で元金は平均して142倍にもなるからだ。


しかも、どの参加者に対してもゲームはフェアでサイコロは公平なのだ。


さて、期待の52週がすぎ、その結果はどうなるだろう?
あなたを含め、ほとんどの人は1年後所持金が1.95ドルになっているのだ。


なぜこんなことになるのか、簡単にイメージだけで説明すると、このゲームに負け続けても0円を下回ることは絶対にない。必ず所持金に対して複利計算して金利を差し引くだけだからである。
しかし、逆に勝ち続けると天文学的な富を得ることができる。上限は最高で52週の複利効果によって\188,005,374,836,230,000ドル手にする可能性すらある。
したがって、平均が142倍であろうと、その平均を実現するためには一部の金持ちが得てしまうお金をまかなうために、ほとんどの人はほとんどのお金を失わなければならない羽目に陥ってしまうのだ。
このゲームの幾何平均は一回につきマイナス15%なのである。


例えばこれが勝ち4%で負け−6%だったらどうだろうか?
今度はマイナスの方が多くなるので期待値は−1%となる。
そして勝負が一年に一度だとしたら?
その代わりに何年にもわたってこのゲームが繰り返されるとしたら?
貧富の格差は多少改善されるだろうが、平均的なほとんどの人の富はさらに少なくなる。


これは世界のお金にかかる金利のおおよその平均なのである。
預金をすれば4%、借りれば6%。
(しかも、金融ゲームに参加していない人でさえ物価変動率というさらに大きなゲームには参加している)


あなたは、明日お金を預けたくなるだろうか?
それとも、銀行から借りて車を買いたくなるだろうか?
それはサイコロが決めるわけではないが、あなたの行動は預金したり、借金したりどうなるかわからない。まして、借金するほうに訴求力が強いのだからなおさらだ。
ほとんどの人がお金につく4%の金利よりも借金をしてでも車や家を欲しがるし、お金を欲しがる人でさえ事業を起こすために喜んで借金をする。
平均的な期待値が年利−1%であっても、さらに貸すより借りる確率が高いサイコロをあえて選択しながら、ゲーム参加者は増え続け、富はどんどん集中していってしまい、平均を維持するために全体を大きく下へ押し下げるのだ。(注1)


富の偏在を起こしているのは、まぎれもなく参加者全員なのである。


世界が100人の村であるなら、このゲームに参加さえできない、生涯所得0円の人々が世界には75人以上いる。
それは果たして、不幸なのだろうか?


注1
この例では結果が0以下になってしまうケースもあるのではないか?
そうなれば大きく負ける人の存在が、平均を押し上げる効果もあるのではないか?
そう思うかも知れないが、カラクリはこうだ。
参加者は1万ドルすら持っていない。しかし、このゲームに参加することができる。
それは将来働いて1万ドル得られる可能性が高いと銀行が見た場合だ。
どんな事業や人にも、将来の所得合計以上のお金を銀行は貸したりしない。
また、莫大な借金を抱えて破産をせずに支払い続けたとしても死ねばチャラになるので決して0を下回ることは無い。

 天国地獄は実在する

ダブルバインドというのは、一種の板挟み状況である。親子関係を例にとるならば、無意識的に子供を愛せず、敵意さえ抱いている母親が、表面的には腕を広げて抱きしめようとするのだが、それに一瞬戸惑う子供に対して「なぜ戸惑うのか、私を愛せないのか」というように、子供を責めるメッセージも同時に送る状況に代表される。子供にしてみれば、母親の言葉に素直に従って甘えるということが、ますます母親をわずらわせ、嫌われるという恐れを抱く一方で、母親の言葉に従わなければ、それを責められ嫌われるという恐れも抱く。つまり、子供はどちらの行動を選んでも母親に嫌われる状況に立たされることになる。ダブルバインドは、このような二重拘束を指しており、子供の精神や健康に大きなダメージを与えかねない。こういったダブルバインドは、人々の精神病や社会不適応を生み出すと考えられている。


母親を媒介にしたダブルバインドは子供の発育にとって非常に深刻だ。

しかし、この世にはもっと恐ろしいものがある。

それは、自分が自分に仕掛けた自縄自縛のバインドである。

もっとも欲するものをもっとも恐れる。
いっそ無視すればいいことがわかっていてもなお更こだわる。


やがて、それは自分の精神や人生までも傷つける。


比喩でもなんでもなく、天国と地獄は自らの因縁によって現世に出現する。
そして、多くの人は地獄に堕ち、一生を苦しみながら死んでいく。


どうやったら自縄自縛のワナから逃れることができるだろうか?


自分を縛るもののどちらかを選択し、どちらかを捨てることしかないのだが、それは簡単にできるだろうか?


そこでこだわっていることこそが、真の絶望なのだと自覚することだろうか?
すぐそこに、天国の門が開いていることに気がつくことだろうか?


なにやら壮絶な自分との戦い、しかも勝ち目のないさそうな戦いの図式が垣間見える。
そもそも死んだらそれで終わり他になんの価値も意味もない人生で、こんな苦労性な考え方しているだけでこれも一つの地獄である。


ものぐさなわたしはこういう大英断を信じない。(信じる人はそれでかまわないが)
そして、ものぐさにはものぐさなりの天国への裏口を探し出せばいいと思う。


その方法は、「地獄に堕ちた自分のこだわり」などなんの価値もないと見切りをつけることだ。そもそも人生にこだわるほどの意味などないのだから。
たったそれだけ。


下手に「自分のこれはいいと思うが、これはダメ」などと自分の生き方をファインチューニングなどしようと考えない方がいい。それでなんとかなるなら、とっくになんとかなっている。


土壇場に来て「あ、これは絶対ダメだな」という瞬間が誰にでもある。
これを言ったらお仕舞いだ。これをやったらますます事態が悪くなる。
という状況で、理性的には十分わかっていることなのに、意味もなく後に引けなくなり最悪の一手を指してしまう。


このくだらないクセをやめろ、ということだ。
そうやって行動することにも、その意志にも、そんな人生にも、最初からこだわるほどの意味などないのだから。

 原因と結果

例えば、株を予想するとき
会社のファンダメンタル
前日までのテクニカルチャート
日経やTOPIXの地合
金利動向
証券動向
ナスダックやダウ工業平均株価
原油価格
政情
などいろいろな判断材料がある。


しかし、答えは上げるか下げるかの二つしかない。


例えば、会社のファンダメンタルを重視して予想して仮に外れたとしよう。
その場合、他の判断基準に変更するべきなのか、組み合わせでいくべきなのか、悩みはつきない。


ところが、逆に正解してしまった場合はどうだろうか?
ほとんどの人が、次も同じ方法で予測を立ててしまうだろう。


実は、そのほかの方法を使ったとしても、正解する可能性は50%あるのだとしたら?


人は原因と結果を実に安易に結び付けてしまう。


原因があって結果がある、という簡単な図式でものごとを考え、それは常に正しいと考えてしまう。
実は、的外れな原因をもって結果を予想しても、答えが「良かった」「悪かった」の2つしかなく、その結果が一定の確率でどちらかになる場合、たった一度の結果だけでは、予想方法が正しかったと証明することは絶対にできないのだ。
われわれが、原因から結果を予測できたと証明できるのは、「きちんと予測しないと100%負ける」勝負においてのみ、なのである。


結果が一定の確率になる場合においては、その一定の確率に対して自分の予測的中率が常にそれを上回る、という結果においてのみ、予想が正しかったかどうかを判断できるのだ。勝負する相手は、良かった、悪かった、の結果ではなく、予想せず放置した場合の勝率である。これにはきちんと予想しないと勝てないので、勝った場合は予想が正しかったことになる。もちろん、結果の確率が正確にわからない勝負の場合は、予想方法が正しかったかどうかは、絶対に究明できない。そして、人の世で結果の確率が正確にわかっているようなことはほとんどなく、あったとしたら「生まれてくる子供の男女の別」のようなことだけになる。


例えば、恋愛において告白する場面を想定してみよう。
これは「きちんと予想しないと100%負ける」勝負ではない。
てきとーに告白しても、相手の都合でOKとなる場合がいくらでもあるからだ。
したがって、原因から結果を予測したとしても、それが正しかったかどうかを証明する手段はないのだ。それにもかかわらず、なんらか原因が思いついたりして振られそうな気がしたとき振られれば、その原因をもとにした予想方法にひとは固執してしまう。
多くの人は告白において非常に無駄な時間をそれら曖昧な予測に費やし、悩み、勝手に絶望して、ただでさえいただけない雰囲気にさらに隠滅さを加えて、ほぼ絶望的な状況をさらに悪化させることに余念がない。
慎重に生きようとすればするほど機会に恵まれず、せっかく訪れたわずかな機会にも躊躇し踏み出せないジミ系の人生は、こんなスパイラルから抜け出せないのだ。


人の悩みの多くは、「きちんと予測しないと100%負ける」ことがら以外の部分に大量に浪費されていく。そして、疲弊し、絶望し、思考停止し、あげくの果てに「きちんと予想しないと100%負ける」勝負にまで予想ナシで突入してしまう。考えてみれば、これは恐ろしいことなのである。


そこで、これら無駄な思考努力を減らすために、人類が歴史の中で長い年月をかけて開発したものがある。


さすが人類である。
このような不可能な問題にまでちゃんと解決方法を見つけていたのだ。


それが、占いなのである。


占いという予想方法はふつう「きちんと予測しなければ100%負ける」勝負では使われない。なぜなら、占いを実行すれば100%勝つ勝負そのものがこの世に存在しないからである。
しかし、予想をしようがしまいが良くも悪くも結果が出てしまう類の、人生における大部分の勝負事において、原因と結果の果てしない究明作業をするよりは、実は占いにまかせて積極果敢に行動に出たほうが、機会が増加して結果的に「悩んでいるよりはるかに勝つ」ことができるのである。


占いが当たる当たらないを問題にしなくても、占いに頼っておけば人生で躊躇ばかりするよりも、はるかに多くの果実を捕れるという点で、占いは実に有益なのである。
もちろん、前段の株の予測に占いを使ってはいけない。株はINDEXの上昇率という逃れようのない判断基準が存在し、予想方法が正しいか間違っているかはすぐに結果が出てしまう類の勝負事だからである。