○平等主義は差別する

遠い昔、ある大きな本屋の「チビ・デブ・メガネを採用するな」、という内部通達が露見して世間を騒がせたことがあった。差別を扱うときに平等主義的な観念で語ると論理の墓穴に入りやすい。


「差別をするな」という時点で「差別主義者だけは差別していい」、というパラドックスに陥ってしまうからだ。


すべての差別を無くせ、という平等主義者の最終目標ですら、その本質は「差別主義者はとことん差別しろ」と同義なのだ。


自分の主張する差別には根拠がある、と言い張るわからずやを容認しては差別は永遠になくならない、しかし、決して差別を捨てようとしない人間を差別する限り、やはり差別はなくならない。
どこまでも平等化すると、結局は「差別主義者さえ差別できない不便な世の中」になってしまう。


ハゲはいくらでもTV番組で揶揄してもかまわないが、デブとブスは取り扱い注意。
そこには「ハゲは差別問題ではなく、デブとブスは差別問題だ」という更に上段からの差別が存在するにすぎない。
デブが間違いなく差別だとしても、デブとは何キロからなのだろうか、その区別は差別にあたらないだろうか、すでにこの議論が差別に当たる。
いったんデブが差別に当たるとなったら、体重によるいかなる比較も差別となる。


これはもっともな話だが、だからこそ、まったく根拠のない差別問題が生じてしまう危険性が常にある。それは差別と同じ程度に危険である。
デブが差別にあたるとしたら、どんな状態がデブなのかももはや議論できないのだから。特に被害意識は実に簡単に被差別意識に結びつく。被害を受けたひとが、自らを客観的に傍観することは難しい。「何キロ」という言葉にすでに傷ついてしまっている事実から検証すれば、いや検証するまでもなく、それはすでに差別にあたる、とならざるを得ない。


問題の本質がもう理解できただろうか?


しかも、「老人臭」だの、「汚ギャル」だの、と、つぎつぎに差別を製造する原動力と差別廃止の原動力の根っこは同じ、「社会的良識」の議論に他ならない。社会的良識という言葉が不適切なら社会認知でもいい。


このように考えれば考えるほど、論理的、理性的に考えて正しい答えの出る話ではないことがわかってくる。


差別問題は、非論理的、非理性的議論だと理解しなければならない。


しょせん、差別の言葉に隠された「いわれなき」の部分や「社会的弱者」の部分など、大衆の主観に基づく以外にないのだ。大衆に差別と認知されたものだけが、差別問題となる。簡単な話だ。
傷つくと主張できるなら「おやじ」もとっくに傷ついているのだが、社会的認知というさらに上段からの差別を受けない限り、おやじは差別され続ける。


平等主義に真の平等はありえない。
結局、良識や平等主義などの社会認知がもっとも問答無用の差別を行う、しかも決してそれは論理的でも理性的でもない、それを認めて、つねに認識するだけのことだ。