○伝統と文化
魂や天国の存在は否定しても、実は宗教は否定できない。
ここらへんが唯物論者とわたしの違いなのだろう、と思うのだが。実は、わたしは宗教を認めている。
宗教は伝統の一部にすぎない、と考えているのだ。
伝統は、必ずしも合理的ともいえない様式や概念を含んでいる。
葬式がああいうカタチで行われる理由は、昔から行われていた、からにすぎない。そこに信仰があったとしても、その精神性は伝統芸能における精神性と区別ができるだろうか?
それぞれの価値観が「我唯一」と言ったとしてもそれはほっとけばいいのだ。
宗教を批判する唯物論者はやはり伝統をも批判するのだろうか。
まぁ、そうでなければならないような気もする。
しかし、春に桜をめでることもやはり伝統である。異動の時期に送迎会を行うことも、部活の新人いびりも伝統である。
そういう有形無形の伝統をすべて批判するのは生産的なことではないだろう。疲れるだけだ。
結局、批判しようとしてもしきれない。
だったら、伝統は認めざるをえないし、宗教も伝統というカテゴリーに逃げ込めば唯物論者から批判を浴びることもないのだ。
そもそも伝統とは、文化に時代の重みが加わったもの、にすぎない。それを捨て去ることのできないノスタルジーには、相応の動機がある。
それは新しい文化に飛びつく動機と比較して、優劣を競うべきものでもない。狂言師がパンクロッカーを批判するのと、パンクロッカーが狂言師を批判するのは、おなじことなのだ。
とても飛びつく気になれない新しい文化だっていっぱいあるが、とても真似したくない伝統もいっぱいある。
やってる本人たちだけは本気なのだ。
だからもちろん、新興宗教も新しい文化のひとつである。
時代をドライブする集団と新興宗教の「いきっぷり」にさほどの違いがあるとも思えない。
時々いきすぎて死者を出したりすることも含めて。
もちろん、個人として宗教も文化も取捨選択する自由がある。
個々の集団の社会適応性については議論の余地はある。
しかし、選択の自由を認めるならば、ある種の抑圧が選択のメニューから新興宗教などを取り除くのはおかしいと思うのだ。
つまり、走り屋の兄がアレフに傾倒する弟を諭すのは無理、ということ。