○わが愛に一片の価値なし

わたしはあの人を心から生涯をかけて愛している。


だから、きっと、こんなわたしにも生まれてきた価値がある。


・・・・・・・・・・・と考えている人がいる。(またです。すみません)






さて、人生において愛が主題ならば、それも許されよう。


しかし、多くの場合、


人は自分自身に価値を見出せない時、人を愛する自分に価値を見出そうとする。


そうなったとき、愛は自分に価値を付加するための単なる道具である。


生きる価値のない自分を、生かしておくための、ていのいい、いいわけである。


それは、「自分」と「相手」と「愛」に対するとてつもない冒涜である。




わたしには、こんなにも価値がある。


だから、こんなわたしが人を愛することにも価値がある。




というのが正しい論理的帰結である。


無価値な自分から愛される人が、そのせいで価値ある人からの愛を受ける機会を奪われているとしたら、それは相手を愛しているなどとは言えるはずがないのだ。


もし、自分が無価値であるなら、その愛も無価値である。


・・・・・・・・・・・・・・と悟ったようなことをいい散らかすアホがいる。(こら)


いや、じっさい、ここまでの思考は間違っていなかったはずである。


それはある種のダンディズムですらあるかもしれない。


しかし、だがしかし。


「あんたが価値があるかどうか、あんたが決めるの?
 バッカじゃない?
 あんたはあんたが思ってるだけのあんたじゃないのよ」


という一言で、ダンディズムは簡単に崩壊する。


愛は無価値より強し、ということもあろう。


それに耽溺するもいい。


これは福音であり、救いである。


愛の扉はひらかれた。




しかし、だがしかし、さらにしかし。


やっぱりそれで安心したら、人間は終わりである。


人は価値を創出する。


だから、恋人が自分に価値を創出するのは自由である。


それこそ、まさに、誰かを好きになる、ということだろう。


だが、それは相手が愛してくれたというだけで、自分はやはりなにもしていないのだ。
「相手」と「愛」に対してこのようになんの努力もないまま義理が果たせてしまったかもしれなくても、自分に対してそれで終ってしまっては、結局は自分を愛してくれる相手、自分を愛してくれる相手の「愛」に対しても、なにひとつ自分はなしたことにはなるまい。


そう考えれば、結局、自分を愛することも、相手を愛することも、愛することを尊ぶことも、すべては自分が自分に対して価値を創出することから始まり、そしてその価値によってすべてが決まってくるだろう。


もしも、自分が無価値だと卑下するヒマがあるなら、誰にも愛されないように全速力で逃げ出すことだけで一生を終えるか、誰にも愛される価値のないまま運の悪い人に愛されることに安住するかに、抜本的違いがあるかどうかくらいは考えるべきである。


どこにも違いなどありはしない。


したがって、自分の価値を証明するため、愛ある家庭よりも仕事場にへばりつく者がいたとして、それを非難できるだけの価値を完成させた人は、それほど多くはないはずだ。


そのくせ、そんな相手を非難するのは、自分が自分の価値の創出を怠っている場合がほとんどである。


そして、それを相手に許されることが、生きることの許しであると信じているのである。


もののみごとに、世間はそれで成り立っていると断言していいほどのバレンタイン騒ぎである。


しかし、ほんとにそれでいいのか?


相手が相手の価値観で自分を愛するのは自由。
しかし、その証明がいくつあったからといって、自分が自分に下す評価にはなんらの影響も与えないはずである。


わたしは、人を愛するだけの価値を自分に認めているのだろうか?


これにふさわしい人間だろうか?


わたしにとってバレンタインとは


チョコに囲まれそれを反省する日である。