ルアーフィッシングの描写

ポイントにつくと、ちょうど落日が正面の山の上、指三本上くらいのところにさしかかっていた。釣りで時間を計るのに時計は無用だ。山の頂きに雲があれば、プライマリータイムはそれだけ早まる。一日雲がかかれば、明るさでおおよその時間が決まるだけだ。
同じように釣りにカレンダーも必要はない。バスのスポーニング(産卵)はサクラが完全に散ったころに始まる。スポーニングの直前、バスは一年で最も多くエサを追う。自分の都合と、シーズンと、よい天候が一致する事は滅多にないが、それでも釣れないときはあっけなく釣れなかったりする。

この季節、若いバスは産卵場所の近くで回遊する。それにあたると、見事なほど同じサイズのバスばかりが立て続けに釣れる。大物は若いバスほどには群れないが、それでも食事時が重なるということはある。

ロッドと厳選したルアーを入れたタックルボックスを携えてキャスティングポイントを探す。

経験を重ねた釣り人ほど、キャストの前になにもせずにぶらぶら歩く人が多い。

ベイト(餌魚)の群れ具合、他の釣り人の様子、使っているルアーなどを見る。
 
よく見るとベイトの稚鮎がワンド(小さな湾)の中に踊っている。見たところベイトは散り散りに広がって、あちこちで気まぐれに跳ねている。水面は小雨の降り始めように波紋があちこちに気まぐれに広がっている。小魚たちはほとんど危険を感じていない様子だ。
近くに、バスはいないのだ。

今は、まだ。

何百という小さな魚が黒い塊になって右往左往しているとき、近くにバスはいる。そんなときは必ず、やがて壮絶で残虐なボイルが繰り広げられることになる。バスの血の宴である。

風はほとんどなく、水面は滑らかにうねっている。竹の杭がところどころ水面から飛び出し、波に洗われている。やや沖合いに水鳥が何羽かいて、時々潜っては思わぬ場所から浮上してくる。

水鳥が潜った時の波紋が、時に釣り人を惑わすこともある。バスがバイトするときの波紋と見間違うからだ。バスがバイトするとき、小魚が逃げ惑って水面を破ることがある。そんなとき、バスは口を大きく開けて下から突き上げ、水面から踊り出る。それを目撃することは、すべてのバサーの血を沸騰させる。
そして、そんなバイトが何十というバスの群れで、あたり一面で突然繰り広げられることがある。それがボイルだ。読んで字のごとく、水面が沸き返ったようになる。突然、夕立のように水面がざわめいたかと思うと、バスの口がガボッと水面から飛び出してくる。それがあちこちで突然繰り広げられ、そして突然終る。その後は、あたりはまるで何事もなかったかのように静まり返るが、水面には傷ついた小魚が腹をみせてくるくる回り、残虐な宴が夢ではなかったことを告げる。
ボイルの間に冷静でいられるバサーは少ない。

そんなボイルも、もう何年も見なくなってしまった。

遠くの漁船が引き波をひきながら通り過ぎてゆく。
船の引き波は正面の太陽を眩しく反射し、それは動く銀の帯となって、二重三重と連なりながら湖面を生き物のように渡っていく。
やがて、足元にザワザワと引き波が打ち寄せ、稚鮎たちを驚かせる。
こうしたわずかな変化と小魚の同様が、突如としてバスを刺激することもある。

リールからラインを引き出して、ガイドに通してく。竿のもとまで糸を引き出してから、竿をわきの下で持ち、タックルボックスからスピナーベイトを取り出して、竿先から引き出したラインに結ぶ。
結び方はもう20年も前に、今は潰れてしまった釣り道具屋の店員に教えてもらった。結びの名前はとうに忘れてしまったが、結び方は指が覚えている。ラインをルアーに通し、いち、に、さん、と心の中で数えながらちょうど十回よじってよじった糸とリングの間に通し、できた輪にまた通す。そしてラインを咥えてラインを熱で弱らせないように濡らしながらキュッと締める。決してあわててはいなくても、早く気際よく結ぶことができる。ほとんど見えないくらいの薄明かりでも糸は結べる。
スピナーベイトは、天秤のように曲げられた針金の両端にゴムの房と金属片がついた、見た目最も魚が釣れそうにない形をしたルアーだ。しかし、このルアーは水深や湖底の様子を探るのに適しているし、リトーリーブ(巻き取り)する時間が短いので手返しがよく、場所を探るパイロットルアーに適している。これをテンポよく投げながら、最も条件のよい場所を探すのだ。
リールのハンドルを回してガイドすれすれまでルアーを巻き上げ、ロックをはずす。カチリという音がしてルアーは10cmほど竿先から離れる。竿から出す糸の長さは風向きや投げる距離で加減する。リールを親指で押さえながら、軽く後ろを振り返る。後ろに立つ人や樹木を釣らないために自然に身についた動作だ。そして、船の引き波で小さくゆれる水面の、一点を見定める。風はなく、足元に小さな波音、両足を軽く踏みしめて足場がしっかりしていることを無意識に確かめる。
竿を10時に構え、振り上げ、2時の位置で振り戻し、12時の位置で親指を放す。スピナーベイトはちょっと高目の弧を描き、その頂点に達してもなお勢いのついたリールは回転をつづける。ルアーの糸を引き出すスピードは落ちるので糸が出すぎてバックラッシュしないように、しかもルアーの飛距離を落とさないように微妙な加減でリールの回転を親指で止めていく、狙った場所の2m手前でジャボンとルアーは落ち、その瞬間リールをしっかりと指で止める。すぐに指を離しながら、竿先をやや下に向け、リールから糸が流れ出ていくのを見る。ルアーが底に達したころ、リールは自然と回転が止まる。ハンドルを回して、糸を巻き取りながら、軽く竿先をあおる。もともと障害物にかかりにくい構造のスピナーベートだが、この瞬間に根掛かりすることが一番多い。コツコツと小刻みな手ごたえで湖底が小石であることがすぐにわかる。やがて小さな抵抗。抵抗の抜け方で湖底に生えているのが藻なのか、水草なのかもわかるのだ。目は糸が消えていく水面を見ているが、神経は手の感触に集中している。やがて、水中からくるくる回るブレードとユラユラとバスを誘うゴムのスカートが現れ、水を割ってルアーが飛び出してくる。

方向を変えてキャストを繰り返しながら場所を移動する。
水深も、底の様子もあまり変化がない。
ルアーを投げる時のビュッと風を切る音、ルアーが水面に落ちる音、リールがカチリとロックする音、単調な作業を続けながら、目は時々ため息がでるほどに美しい湖水の表面をなでるように見る。
小さな藻の固まりや相変らずのんびりとジャンプする稚鮎の小さな波紋。
やがて、小さな水を吸い込むような音。
目線を走らせるとやや遠くに大きめの波紋。
ルアーを絡ませないようにリールを巻くスピードは変えないが、注意は手の感覚から目に移る。その目線の先に水面近くでバイトするバスの波紋。

同じスピードでルアーを巻きながら、身体は中腰になって、タックルボックスをとりやすいようにする。
ルアーを巻き取ると、すばやくタックルボックスを開いて、やや大きめのスティックベイトを取り出す。名前のように、ただの棒に鉤バリがついただけの、水に浮くタイプのルアーで、ロッドとリールでルアーを操りアクションをつけるタイプ。
水面に興味を集中させているバスを誘い出すルアーだ。

手際よくルアーを付け替えると、さっきバイトがあった位置へキャストする。
ルアーが水面に落ちる。その瞬間にルアーに喰らいついてきたあのバスを思い出す。今にもヤツがあのときのように水面を割ってルアーに食いついて来るような気がする。

ルアーが落ちても、スティックタイプのルアーはそのまま水面に浮いている。

ルアーが落ちたときの波紋が消えるまでしっかりと待つ。本当にバスを恐れる魚は、水面で音をたてたあとバスの気配を感じると安全とわかるまで身動きしない。それを模倣するためだ。
その間にハンドルを少しだけ回し、バスが喰らいついたときにすぐフッキングできるように余分な糸を巻き取っておく。
そして、たっぷりと様子をみて、ほんの少しだけ竿先をあおり、リールをわずかに巻く。

ちゃぷっ。ちゃぷっ。

魚がこわごわ様子を見るように、ほんの少しだけ水を跳ね、そしてその水音に自分が怖気づいたかのように急にまた止まる。

ガバッ。

突然襲い掛かりルアーを水中に引きづりこんだあの時のあの魚。あの竿のしなり、糸がキンキンと唸り、リールが空スベリする感触。その感覚がとつぜん襲って来る。
今にも、バスが食いついてきそうな感じがする。

ちゃぷっ。ちゃぷっ。

ルアーを水面から突き上げ、勢い余って巨体を躍らせ、半回転して咥えこんだあの時のあのバス。あの時のようにまたあいつがやって来る。

ちゃぷっ。ちゃぷっ。

小さな波紋が消えようとする湖面はなにごともなく、ルアーは身を隠すように動きを止めている。水面の下でなお疑い、用心し、それでも注意を向けずにはいられないイラだったバスが執拗にルアーを目で追っている強烈な気配。

そしてまた少しだけ、恐る恐る小さなスプラッシュをあげる。

いままでの、ありとあらゆる場面での、バスとの格闘の感覚が光景や手の感触となって引き込むように蘇る。何度も。何度も。

小さな切り株の根元10cmの場所へ見事にキャストを決め、仕留めた一匹。

その気配を完全に消すまで動きをとめ、警戒に警戒を重ねた大物がガマンできずに飛び出すまで辛抱強く待ったあの最後のワンアクション。

リールとロッドを操る動作のひとつひとつが、ルアーのたてる小さな水音と小さな波紋が、今までのすべてのバイトの瞬間を呼び起こし、蘇らせる。
 
アクションを加えては止め、じっとあたりをうかがいながら、またアクションをつける。

何度くりかえしても、何度でも蘇るあの感覚。

気がつくと、まわりはすっかり暗くなり、プライマリータイムは終っていた。