○存在しないも同然の心配

人口1億に対して、例えば、なにかの中毒患者が数百人出たとしよう。


人々は恐怖に陥り、中毒のきっかけになった薬物や食品に異常な注意を払う。


こんなとき1万という数字は非常に便利だ。


1万×1万=1億


なので、簡単に人口割合を考える基準にできる。


例えば、なにかの中毒で1万人が死んだとしよう。
とんでもない数に聞こえるが、人口全体から言うと、1万人に1人死んだだけである。


いわゆる、重要犯罪(殺人,強盗,放火,強姦の凶悪犯に略取誘拐,強制わいせつを加えたものをいう)の認知件数は年間およそ2万。


被害者になる確率は1万人に2人である。


ちなみに強制わいせつは約2千、これは被害届の件数なので実際は10倍だと言われている。つまり2万。人口比で言うと、女性の1万人に4人(男性が含まれないので、確率は倍になる)が強制わいせつに会っている。(ちかん行為は除く、これはレイプ事件の話)


数百人の中毒を出した食品よりもよほど(つまり百倍近く)気をつけないといけない。


交通事故も年間およそ1万人が死んでいる。


それですら、1万人に1人が被害にあってコレなのだ。


そして、自分という存在は1億人に1人しかいない。


ほとんど無に等しい。


ここは巨大な養殖場である。管理者は神。
われわれは毎年、毎年、交通事故というアミや、重大犯罪というアミ、さまざまなアミで掬い取られる。


しかし、アミに掬い取られる確率は1万人に1人しかいない。


アミを気にして、巣穴に閉じこもるべきだろうか?


それが、有意義な人生だろうか?


1万人に1人発生する事故を心配するということは、1人で1万人分の心配をしていることになる。


もちろん、こどもが道路に飛び出せばたいていそこにはわき見をしたドライバーが居合わせる。ビルからジャンプすればたいてい死ぬ。そういう予見できることを避けることと心配とはまったく別なのだ。


ふだん、ひとびとは予見できる事故をじょうずに避け、その結果そうめったやたらと全ての公園から道路へ、子供が飛び出して来たりはしないのだ。


世の中には心配をする人と、懸案問題を抱えている人の2種類しか居ない。


心配する人というのは、なぜか1万人分の心配をたった1人で引き受ける。


もちろん、そんなことになんの意味もないのだ。


その人がいてもいなくても、統計上の人々はちゃくちゃくと死んでいく。


誰しも、運が悪ければ死ぬし、運のどうしようもなさというのは、生きていればたいていは理解ができる。


しかし、それがどうしても理解できない人がいる。


さんざん運に翻弄され、運命的に出会ったり、占いを信じたりしているくせに、そういう人に限って運を左右できるという錯覚に陥り、1万人分の心配を楽々と1人で背負い込む。


実際には、その当事者になるにはたいへんな苦労がいるのである。


なろうと思っても1万人に1人なのである。


1万人に1人というのは、後藤真希のオーディション合格率とほぼ同じなのである。(後藤真希は11000人の応募の中から選ばれた)






心配する人よ、おまえは後藤真希か。