帰納法的アプローチのジレンマ

『エレガントな宇宙』という最新宇宙論を「非常にやさしく」解説した本がある。
正直、出てくる単語の意味さえ理解不能
ただなんとなく、宇宙に対するイメージが多少変わった程度の成果ではあったが、それはそれで偉大なる知見なのである。


読んだのはすでに一年も前のことだが、ときどきはんすうして考える。


こういうとき、本に出てくる「折りたたまれた9次元」だとか「カラビ・ヤウ図形」だとか難解な部分は消え去っていて、ただ、なんとなく、とてつもなく捕らえどころの無い小さな弦の振動が、あらゆる粒子の根幹なのだという音楽的なイメージだけが繰り返す。


物理学もいよいよ「小ささ」の極に近づきつつある、と、学者たちは言う。


しかし、よくよく読んでみると、それは巨視的な粒子、つまり少なくともわれわれが間接的に存在を認知できる程度の大きさの粒子と、それに影響を与える4つの力の源に近づいているから、というのが根拠らしい。


はたしてそうか?


もしもわれわれの世界に実在を認知できないほどの微粒子が存在したとしたら?


それはあらゆる方法をもってしても実在を認知できないのだから「真空」なのである、といまの物理は簡単に言うだろう。


事実としてそんな粒子が存在したとしても、そんなことは関係ない。


つまり、われわれは所詮知りえることしか知りえないというあたりまえと言えばあたりまえな、それだけなら江戸時代の、教育とは無関係な百姓だってうすうす感づいていたことをあえて論証しているにすぎないのだ。


小ささの極といえばプランク定数というエネルギーの最小単位をあらわす定数があるが、そもそもこれは無限大(あるいは無限小)という数学的破綻から理論を「救う」ために定数化(量子化)した最小定数である。


これを「物理学的」に「実在」を証明したのがアインシュタインだが、彼が論拠にしたのが光電効果という現象だ。
光電効果とは光が電子へ与えるエネルギーの振る舞いの不思議さを言うが、プランク定数を使えばこれが解決(説明)できる。という。
金属に光を当てると光のエネルギーにはじき出された電子を観測できる。
ところが、光の波長を短くしていくとある時点からどれだけ光をあてても電子がまったく放出されない。このとき、問題なのは波長であって、エネルギーの量とはまったく関係が無い。金属が焼ききれるほどのエネルギーを当てても波長が短いとまったくエネルギーは到達しない。
つまり、エネルギーはプランク定数という最小単位を持っている。
光の波長がそれを下回ったとき、どれだけ光をあてても、エネルギーが転化されない。


というようなことだ。


エネルギーは「存在し」確かに光は金属板にあたっているが、それにはじき出される電子は「存在しない」という事実にすべては頼っている。
結局は、物理は観測に基づいて証明される、という命題のために、(あるいはすべての観測を説明するという物理の使命のために)観測できないものをすべて「無」として実在を量子化し、その量子化された世界だけを数学的な記述によって表現しているにすぎないのではないだろうか。


物理が使う数学の「数」とは、そもそも量子化されたものだから、これで記述できることには限界があってもあたりまえではないだろうか?


例えば、コンピュータの世界には0のほかにNULLというやっかいなモノがある。
ただし、そもそもコンピュータの世界には0か1しかないのだから、NULLとは概念上のものにすぎない、が、しかし、それは実在する。
プログラミングであるデータ(i)を1か0かに振り分ける記述は
IF i=0 THEN ・・・・
などと記述するが、これだけだとときどき予想外の動作をコンピュータが起こしてしまう。つまりあるデータ(i)に0さえ入っていないことが頻繁にあるからだ。
なぜなら、人間がデータを入れ忘れること、あるいは事実が不明な場合、があるからだ。


リンゴがある→i=1
リンゴがない→i=0
リンゴがあるかどうかデータそのものがない→i=NULL


これは
IF i=NULL THEN GOTO SKIP
というような記述でNULLの場合はプログラムが「評価しない」ようにスキップするしかない。


プログラムが暴走して、社員から白い目で見られながら、このようなスキップをあわてて記述をするときに、ときどき思うことがある。


0はNULLよりも「まだしもなんらかある」からましだ。


0が実在するというのはインド人の数学的大発見だったのだが、
しかし0さえないというNULLが「実在している」ことも事実なのだ。


わたしがNULL処理を記述しなければならないのは、まぎれもなくNULLが実在するからだ。


しかし物理学はNULLを根底から否定する。
物理学はNULLに「触ることさえ」できない。
数学も(一部の理論数学を除いて)しかりである。
なぜならNULLとは「認知外」をあらわしていて、物理学は認知外を一切無視する「オッカムの剃刀」という概念上の世界に構築されているからだ。


宇宙がどんどん時間を遡ってビッグバンに到達しどんどんちぢんで「プランク長さ」という最小の長さに達すると、今の物理学が使う数学では光が達する最大の長さと同じになる。つまり、宇宙の極限の大きさそのものになってしまう。


そうなってしまうので、今の物理学は「そうなる」と言う。


極小の宇宙は極大の宇宙と「ほんとうにおなじ」なのだ。


そんなことは手塚治虫が「火の鳥」でとっくに書いているのだが。


それは、宇宙の大きさを「光が到達できる最大の距離」で定義し、それより外のことは(なにしろもっとも早く到達する光さえ宇宙開闢以来到達していないのだから)認知不可の世界だとする「物理学的世界観」が、そもそも「そのようにしか宇宙を定義できない」ことからくる単なる論理的落とし穴にすぎないのかも知れない。


そう考えればもっとも小さいという定義上の長さである「プランク長さ」が「光の到達距離」と等しいのはある意味で合点がいく。


お互いにそれは「認知外」の境界線を定義しているのだから、その「認知外」の境界線上に極大と極小が表現されるのは当然ではないか。
その「認知外の世界から見れば」、おまえの宇宙がどんな大きさだろうと知ったことではない、からだ。


果たしてこれが事実に少しでも近づいていると言えるのか?


もしこれが事実だとすれば、やはり、「わたしたち人間は知っていることはすべて知っているが知らないことは何ひとつ知らない」、という古代からの知見から一歩も出ることができないのは当然であろう。


その外を知ることができるのは、イマジネーション(空想)にしかできないのだ。


だとすれば、あらゆるイマジネーションを物理学は否定する力を失ってしまったと言っていい。というより、そもそもそんな力はなかったのだ。


霊魂も、死後の世界も、輪廻転生も、宇宙人Xも。認知外の世界にいる限り絶対的に安泰である。しかもNULLのように実在してもいいのだ。


そうなると、やっぱり霊魂も、死後の世界も、輪廻転生も、宇宙人Xも信じないわたしは、帰納法的アプローチにすごすごと戻ってきて、ふとんをかぶって寝るしかない。


プランク長さは光の到達距離とおなじでもいい。
最小の宇宙は最大の宇宙と同じでいい。


そしてNULLなど考慮しなくていいのだから、
ウチのソフトがときどき暴走するのは必然だということだ。