○持てる者がもっと持つ
近代の経済学では、エージェント(知的構成要素)はそれぞれが必ず最善の行動を取り、その結果がマクロ経済となる、と定義している。
だから、競争原理にまかせて好き勝手にさせておくと、社会全体が最適化適応する、という理論だ。
また、儲け話には資本が集中し、結果、マーケットは大きく発展する代わりに利益は分散し個々の利得は減少する、これを収穫逓減という。
このため富の一極集中はない、とされる。
しかし、現実には収穫逓増とも言える富の一局集中(お手本:マイクロソフト)や、最適化適応とはとてもいえないFGHJキーボード配列の流行(PCの標準キーボード、初期のタイプライターがハンマー同士衝突しないためにあえて打ちにくいようにデザインされている)など、不合理なものによる市場支配、(=ロックイン現象)もあり、デザイン業界で未だにマックが使われているのもその例である。
複雑系を扱うホームページにはこのような例の枚挙に暇がない。
この世は決して、経済の最適化適応ですべてを語れないし、富は集中したままなかなか動こうとしない。
なぜ、理論経済のユートピアとかけ離れた「持てる者がもっともつ」現象がこのように起こりうるのだろうか?
ひとつには、経済は「信用」によって成り立っている、ということ。勝っているものは信用を得、さらに勝つ。負けている者や一からスタートしたばかりの者は、勝っている者ほど信用されない。必ずしも現時点で負けている者や一からスタートしたばかりの者の商品が、勝っている者の商品より劣っていなくても、それは関係がなかったりする。
与信能力は未来の収入ではなく、現在収入で査定されるからだ。
しかし、ことがそれだけなら、理性的合理的判断でこれを是正することも可能なはずだ。
合理性とは、合理的に考えるならば、誰にでも到達できる結論のはずである。
しかし、現実はそうではない、それはなぜなのか。
それはすべてのエージェントが経済学的最適行動をとらないことにも原因がある。
別の言い方をすれば、すべてのエージェントが多様な価値観に基づく多様な合理的行動を取ろうとするのである。
人は、それぞれが自由な価値観を持つ権利を持っている。
しかも、その権利は自由な社会では自動的に行使される。
したがって、その価値観に基づいて人は好き勝手に行動する。
家族の絆や、恋愛関係、人道主義や自然愛護主義など、経済と関係のない世界での価値は多様にあるし、人の真の幸福は、自分の価値観に基づいて、最大の利得を得ることに他ならない。
「富」という単一の価値基準ですべてを見る経済学では、このようなエージェントの多様な合理性を理解することはできない。
逆説的な見方をすれば、「富」に基づいた行動に抑制されることで、人は真の合理性や幸福を見失うこともある、ということだ。
なんだか、道徳の話のようになってきたが、話はそれだけではない。
そのような、あらゆる価値観の中すべてにおいて「持てる者がもっと持つ」法則が、やはり成り立つということなのだ。
献身を理想とするならば、それを極めることによって信用を得ることができれば、「もっともしたいと思う献身を思う存分することができる」そのうえ、さらに信用が高まり、さらにチャンスが増えてくる、のだ。(お手本:マザーテレサ)
自然愛護を理想とすれば、自然愛護の頂点に立つものはまるでエレベーターに乗るように、更なる自然愛護へと自動的にリフトアップされるのだ。
「持てるものがもっと持つ」その人生のコツは、いろんな価値観に惑わされて、多様な価値の中でバランスを取れば取るほど、収穫逓増はおきにくいということを理解することだ。
もちろん、自己満足だけを極めてそれでよければそれでもいい。
が、人からうらやまれ、うらやむ人からの利得もすべて得て「さらに持つ」ためには、多くの人から価値を認められるものを最大に持つことが大切だ。そして、どこまでもどん欲に「さらに持つ」こと。
おもちゃコレクターも、頂点に立つと人もうらやむレアなおもちゃの商談が向こうからやってくる。このとき、おもちゃと新車を比較して悩んでしまったら、せっかくの地位もまったく台無しになる。
人は、望んだ自分になればなるほど、さらに望んだ自分になれるのだ。
人に認められる、人からうらやまれる、とは、単純な話だが自分の価値に迷いを持たないこと、それだけだ。
やって楽しいことをしろ、という簡単なことなのだ。