時代をドライブする者

いつの世にも、その時代を代表する世代がある。


その世代にヒットせず生き抜くことは難しく。


誰しも、一度や二度は時代を代表させられる


しかし現実に「汚ギャル」だの「不倫世代」だの「モラトリアム」だのと言われても、その世代の大半の人々は前世代の人々と同じような生活を送っているだけである。


つまり、前の世代は今までの世代と同じで、あとの世代も今までの世代と同じで、違ったことしてるわずかなグループを擁している世代だけがことさらその世代ばかりか、一時代をも象徴するかのように扱われているだけである。


それこそ、陳腐だがもっとも死亡者の多い交通事故の扱いが小さく、凄惨だがほとんどめったにない事件ばかり扱う新聞やTVのいつものやり方である。


しかし、そのようなレッテル貼りが行われると、その世代や周辺はやはりある意味活気付いてくるのも確かなのである。
自分自身はそんな特定の人でもないのに、「そんな人を知っている」というだけで何やら時代の風が自分たちに向かって吹いてきているように感じてしまうのだ。
そして、そんな時代の風を象徴するような音楽や小説やTVドラマなどの空気を吸いながら、心地よく時代をドライブするのだ。


で、実際にそのど真ん中で実際に時代を象徴するかのうに言われた特定の人はというと、最初こそ自分たちの発明した言葉が雑誌をにぎわしたりと楽しいのだが、やがて陳腐化という泥にまみれてみるみる沈没していくのである。昨日までは「おれたちってちょっと先行ってるかも」という優越感があったりしたのに、やがて「まだやってんの?」と逆に遅れてるっぽく言われるわ、小ばかにしてた下っ端の世代や、あろうことかダサダサと思ってた上の世代からまで真似しいが現れるはで、すっかりドライブ感もだいなしなのである。


このようにして、象徴は終わりを遂げる。


しかし、時代を象徴して突っ走った者の、突っ走ったその動機はいつの世でもいつも同じなのである。






「もう、退屈で退屈で死ぬかと思った」




こう考えると、時代をつねに作って来たのは「退屈」である。
その情熱とエネルギーはすべて「退屈」に由来するのだ。


人は退屈を感じたら、突っ走らなければならないのだ。