◎人はどうにもならない神と戦い勝ってきた

ひとは自分にとって「どうにもならないもの」を信仰の対象にしてきた。


太古の昔、人は狩猟民族で敵は猛獣だった。


その時代、信仰の対象の多くは猛獣であった。


彼らは猛獣に対して無力だったので、敵に語りかけることで怒りをとき、生き延びようとした。


農耕民族となると、作物の出来を決定する天候が信仰の対象となった。


人類は、書物がなくても宗教儀式、という文化遺伝子で恐れの対象にうまく対処する方法を子孫に伝えた。
それは科学とは違うが、実際ある程度は効果があっただろうし、また、集団的パニックを抑える効果は間違いなくあった。


人類は「どうにもならないもの」を容認し、犠牲を生贄にすりかえることで、その地にとどまり、無力感と悲しさから眼をそらしてしぶとく生き延びた。


人類にとって信仰の対象は、つねに克服すべき戦いの対象であった。
人類は神と戦うことで、進化してきたのだ。


やがて、人類が生物世界の覇者になると、信仰の対象は人格神へと変化した。


もはや、人間にとって恐いのは人間となった。
しかし、個人レベルではわれわれの世代はすでに戦争を知らない。
略奪も、民族間紛争も知らない。
社会的安定で人間もそれほどの脅威ではなくなった。


いま、あなたにとってもっとも「どうにもならないもの」とはなんだろう。


「だって***だからしょうがない」


おなかがすいたから、といいながら食べる。
好きなんだから、といいながら不倫を続ける。
不安だから、といいながら引きこもる。


もっとも「どうしようもないこと」が自分で、それが本当にどうしようもないことならば、それは信仰の対象になる、ということではないか。


狩猟民族が「ライオンが恐い」からと言って森から逃げ出したり、農耕民族が「雨が降らない」と言って畑を放り出していたら、人類は未だに、地球上に転々と暮らす惨めな生き物だったろう。
「どうしようもないこと」を信仰にし、受け入れ、生け贄さえささげることは決して人類にとっては恥でも負けでもはなかったはずだ。


一番大切なのは、そこにとどまって生きること。


そして、解決できる事だけを解決すればいい。
できないなら、受け入れ、信仰を捧げてよい。


人類は、野生動物ほど強靭ではない。
じっさい、ひとりひとりは驚くほどひ弱ではかない。


それでも人が地球生命の頂点に立ったのは、弱さを文明や社会構造で克服してきたからだ。


それは、遺伝子とおなじに、祖先から受け継いだ人類全体の資産だ。
だから、すべての人はそれに依存する権利がある。
生活保護」「自己破産」「病院」「養護施設」「刑務所」「会社」「家族」「友達」「恋人」これらの社会構造は、すべて人間が進化の過程で獲得したもので、必要ならだれもがそれに依存して生きていい。


依存したからといって「なにひとつ返す必要はない」
それは遺伝子と同じに、みなが受け取っている能力だから。


人間がつくりあげた社会は「弱肉強食」で、しかも「弱者救済」である。
その中で人は欲しい物があれば、自分で努力して勝ち取らなければならない。
しかし、その努力の一部は社会構造に依存する弱者に分配される仕組みになっている。


努力がわりにあわない気がするのはそのためだ。


弱者へは、人が努力をばかばかしく思うほどに過剰には分配されない。
そしてさらに余ったものが「富」であり、富の90%は人類の上位10%に再分配される。


わりにあわない気がしても努力ができるのはそのためだ。


勝者への頂きが適度に高く、勾配が適度にきついから、人は自分の努力の一部が弱者にまわることを容認できるのだ。


そういう仕組みになっているので、坂道のどこで立ち止まってもかまわない。
なにも欲しくない人は、遠慮することなく完全に社会に依存して生きてよい。


一人で無謀な戦いを続ける必要などないのだ。
神とは戦わぬこと。


たいせつなのは、そこにとどまり、できることだけをやり、笑って生きること。