◎肉体と魂そして死 残念だがわたしは死なず魂も存在しない

アメリカでは、宇宙論をおしえるとき神学的宇宙論も同時に教えるべきだという裁判が思い出したようにあちこちで起こる。
それを聞くと実に不思議な気がする。


いまさら天動説を否定して地動説でもないだろう。
そんなことをしてなにになるのだろう。


しかし、考えてみれば、それは国家的宗教観を失った日本人なら言えることであって、実は、そんな訴訟が起こることはアメリカではある意味あたりまえなのだ。


人には教育の権利があるのと同じに、信仰の権利もある。
教育で得た知識と、信仰で得た知識が矛盾するとき、どちらを選択するかは個人の自由である。だれかが「天動説」を信じたければ、それを侵す権利はない。したがって、初等教育においてことさらに信仰を否定した地動説を教えるのはいかがなものか、というのが根拠なのだ。両方教えろと。
教育にとっても信仰にとっても等しく初等教育は重要なのだと。


しかし、われわれはそんな国家的宗教観はとうに失ってしまった。


たとえばわれわれのイッコ前かその前の代では天皇教育というものが存在し、天動説を教わっていたりするのだ。(聞いた話では)
ときどき、身近な人間がふとそれに近いことをいうと、なぜかギクッとなるのはわたしだけではあるまい。


自分の父親が、地面は限りなく平らだと信じていたら?
やはり、なにか一言言ってあげたくはならないだろうか。
「神」になるために「死」も辞さないなどと言い出したら?


今回は、それでもなおはびこる「魂」というものの存在について、考える。
「魂」という言葉をつかい、わたしがいつもギクッとなるようなことを平気でいう人たちにも、ぜひ読んでもらいたい。


なぜか?わたしは、そんな魂を信じる人のその根底に、自己否定を感じるからだ。
今の自分は魂(精神)のひとつの表現型にすぎないというのは、ある意味正しい。
ただ、魂(精神)を表現できるのは、この、くだらなく、不完全で、自分を拒否したような、この、みじめな世界でしかないのだ。
残念ながら次はない。
そのままにしておいてはいけないような気がするのだ。


もちろん、信仰は自由だ。
アメリカの天動説裁判のように。
地面は限りなく平らだと信じていたいならそうすればいい。


しかし、このさい天動説と同じく、魂を気持ちよく否定して、この宇宙で生きていく覚悟をそろそろ決めたいのなら、自分の命のほんとうの意味を知りたいなら、ぜひ一緒に思考の過程を楽しんでもらいたい。


肉体と魂は別物か?
肉体が滅んでも魂は存在できるか?


答えはどうやら、NOだ。


肉体と魂が別物ではない証拠にクローンがある。
肉体を2つに分離してクローンを育てると、やがて2つの肉体になり、2つの人格になる。
クローンは肉体的にも精神的にも別の個人として生きている。
まったくの別人格になってしまうのだ。
肉体がただ単に魂の入れ物で、肉体と魂は別のものだという考えだと、この単純な事実を説明するのに、えらく苦労する。
単なる入れ物に新たな魂が宿るとは、いったいどういうことだろう。
あらたな魂はフラスコの中でどのように生成されたのだろう。


肉体があって、そこに魂(精神)が従属すると考えるのがどうやらこのさい合理的だ。


そして、肉体が滅ぶと魂(精神)も滅ぶ。
それは、人格が記憶に依存しているからだし、記憶は生命活動に依存しているからだ。
記憶を失った魂は、例え魂としては不滅だとしても意味はない。


それでも魂が存在するとしたら、次のような考えはどうだろうか。


脳が活動を停止しても、脳を構成した原子は存在する。
これと似たようなイメージを魂に抱いている人もいる。
魂が脳の原子と同じだとしたら、そんなものが死後存在することが故人にとってなにかなぐさめになるだろうか?


素粒子レベルで考えれば、われわれは等しく宇宙と一体で、誰一人としてそれ以外の存在ではない。みんな、おなじである。人格で比喩するなら、同一人物である。
星と月、きみとぼく、なんの境界もなく均一で区別はない。


素粒子のことを魂と呼ぶなら、まさしく、魂は不変、不滅である。
死んでも残るのは魂(精神)ではなく、肉体(素粒子)のほうなのだ。


そこに何もロマンを感じないならば、死後に記憶を失った魂が残ることがどれほどありがたいだろうか。


だがしかし、例えば、故人がいまも生きていて、そして自分のそばにいてくれる。
そういう感覚を否定することはできない。それは事実なのだ。
人の死後、こういう感覚に捕らわれることで人は魂を感じる。


ある曲を聴くと、とつぜん仕事をしているはずの恋人を急に身近に感じることがある。
なにか悪いことをすると、子供のころ叱られたことを思い出し、故郷で暮らす母親を急に身近に感じることがある。
故人の魂を感じる感覚は、これと同じことだ。
実際、意識の世界で身近に感じる対象が生きているか死んでいるか、そこにたいした違いはない。
なつかしさ、理想、願望を相手が生きていようと死んでいようと、また架空の人物であろうと、誰かに重ねて身近に感じる感覚は間違いなくある。
ただ、その感覚を共有できると思うのは、相手が生きていても死んでいても、土台無理な話だ。それは自分の一部で、相手の一部ではない。生きていても、死んでいても。それは自分の中の宝物なのだ。
そういった「第三者感覚」も含めて、それが全人格なのだ。


あの人はわたしの中で生きている、はまぎれもなく事実である。


しかし、だからといって魂を信じる根拠にはならないようだ。


魂を否定すると、またひとつ疑問が沸き起こる。
死とは、死後とはなにか。


ついでに考えてみよう。
精神は肉体に従属して、魂が存在しないとすれば、


わたしは死なない。


わたしが鳥のように空を飛べないのと同じように。
わたしが好きな人を決して忘れられないのと同じように。


眠っているときだけ自分が空を飛んでいるとして、それが朝起きたわたしに記憶としてまったく残っていなかったら、仮にわたしが空を飛べるとしても、それはわたしにとってはまったく意味がない。
わたしは飛べたとしても、それを経験として記憶できなければ、わたしは飛んだことにはならない。
きっと死もそういうものなのだ。
決して、わたしは死を体験することはできない。
だから、わたしは死なない。
体験は、生。
体験できないからこそ、死、なのだ。
だから死を恐れることはなさそうだ。


それなら、死の直前の体験はどうだろう。
実はそれもそれほど恐れる必要はなさそうだ。
死の直前は、もう始まっているからだ。
そう、わたしはすでに、着実に死につつある。
わたしは時間を超えて未来へ行く事はできないので、「今」より死に近づくことは絶対にできない。
つねに、「今」がもっとも死に近い、死の直前なのだ。
それならば、それほどには恐くはない。


いろいろ思考を重ねても、魂を否定するというのは、それでも簡単なことではない。
どれほど地球は丸いと言ってみても、そうではないとがんばれるひとには、それなりの理屈もある。


そこでもう一度根本的に考えてみたい。


魂を否定すると、自分にとってなにが不都合なのか。
なぜ、自分にとって魂は存在しなければいけないのか。


これは思考の仮定だ。もし魂が存在しないとしたら、そのとき、それを一番拒むものはなにか、つまり、なにが魂を必要としているのか。


魂を否定したとき、わたしは代わりに受け入れなければならないことがある。


それは、この世界、この現実、この肉体、この運命、この人間関係、そしてこの無念さ・・・・・・・・・・・・・


しかし、固く魂の存在を信じていても、結局わたしは死ぬこともできないだろうし、肉体の素粒子ほどには死後の魂はあてにならないかもしれないが、どうせわたしはそれを経験できないし、間違っていたことを後悔することもできないから、実はどちらでもいいのだ。


問題は魂を信じることで拒否しようとしていたこと。
思い切って魂を否定してしまえば、わたしは「今」の自分に向き合わなくてはならない。


それはわたしにとってはとても意味のあることのはずだ。
魂を信じるかどうかよりも、もっとずっと重要なことが。


どんな皮肉か知らないが、宇宙誕生からわたしが生まれるまで、150億年はそのために費やされたのだ。


にも関わらず、そこには客観的にはなんの価値もない。
価値を見出せるのはわたししかいないし、わたしがそれを拒否するのなら、誰ひとりとして困ることもないだろう。


どんな偶然か知らないがわたしが生まれ、どんな偶然か知らないがわたしがこれを書いている。
そのために、人類は原子力で発電し、素粒子をコントロールしてメッセージを表示している。
たったこのために、森から出てきたサルがいて、たったこのために、陸に上がった魚がいた。
たったこのために、石とガスと氷でできた世界に生命が生まれ、たったこのためにこの宇宙が生まれたのだ。


そのすべての結果が今のわたしなのだ。


信じられないほどの、この、過程の積み重ね。
わたしがこれから何をしようと、結果がどうであろうと、この壮大すぎる過程がすべてを肯定してしまうだろう。


それなら、わたしはどんな結果を生んでもいいのだ。


これほどの過程が、すべての結果を輝くものにしてしまうなら。


わたしはやがて美しい過程の中にとけこんで、次の結果を生み出すだろう。


わたしは嬉々としてわたしの精神の表現型として「今」に生きればいいのだ。


その価値はわたしだけが発見し、わたしだけが創りあげる。


そして、わたしはこれまでに積み上げられたすべての過程にそれが値することを知るはずだ。