○確率論的民主主義

民主主義の原則は「オープンな議論」と「多数決」である。


で、今日は多数決について考えてみる。


例えば、多数決の結果「賛成51%」「反対49%」なんてことはたまにある。
その場合「賛成」という政策がとられ、51%は満足するが、49%は不満である。


しかし、公平に見ると1%の差は1%の差でしかない。
それなのに49%の意見は絶対に政策に反映されない。


伯仲した多数決は、実はどっちに転んでも、まぁ、いいじゃん、なのである。
たかだか1%の違いなのだから。


だったら、多数決をやめて「確率決」を採用したらどうだろう。


投票したら、絶対的に公平な抽選機でそこから一票を抽選してそれを「決」とする。
本来多数決なら負けるしかない民意が確率的に49%の割合で、反映される。


これはこれで、実に民主的だと思うのだ。


絶対に実現しなければならない政策なら80%の賛成を取り付けないと「恐くて多数決には移れない」だろう。
そこで、平明で理性的な政策(つまり、どっちに転んでもほとんど差のない政策)に議論が集約されることになる。
そういうふうに議論を集約するためには、持ち出す政策は必ず全体の利害が適切に満足されていないといけない。
反対する側は単に反対さえしていればいいが、政策を持ち出した側は反対意見にも自分たちの政策が反映されるようにどんどん譲歩しなければならない。つねに負ける可能性があるからだ。


たとえば、自民党案と民主党案と政府案のすべてについて、もっとも政策上利害に関係する人々が、もっとも譲歩してどの案にも最低限の保険をとりつける必要に迫られる。
そうやって、特定権益は全体に譲歩しながら力をそがれ、やがて正論に自然淘汰されてしまう。


51%の票さえ固めてしまえば多数決に入れる、というお気軽多数決よりも、より具体的で本質的な議論が求められることになる。


玉虫色の議論で、細部まで確定しなくても、多数決で決めてしまい、各論で本音を小出しに決めていける、という場当たり的な手法は通用しない。
多数決で小出しの各論を5つ決めるには60%あれば「絶対多数」だ。
しかし、確率決では60%の票を集めた政党が5つの各論ですべてを実現できる可能性は1.6%しかないのだ。
だから、議論を小出しにすればするほど不利になる。(爆)


まったく、単なる日記のネタにはおしいほどのナイスアイデアではないか。


それよりも、だいたいからしてこんなことを思いつく原因は、政治に絡んだ金が政治に還元され、そのリングの中にいる人たちだけで政策決定されてしまう、というセツナイ現状がある。


特定権益を政治から得ている人たちは惜しげもなく政治献金をし投票するが、「まじめな市民は政治献金などしない」し、「不真面目な市民は選挙にも来ない」のだ。たかだか40%の投票率の中、たかだか40%くらいの得票を得ている自民党は、つまり16%の意見しか反映しなくても政権がとれてしまう。
その16%が本気(政治献金をし、投票をする)でさえあれば。


一番の問題はそこにある。
はっきり言えば、特定権益からの政治資金など、「たかが知れている」のだ。
実際に莫大な金が政府予算に投入され、莫大な金が特定権益に流れるが、自民党へのペイバックはせいぜい100億かそこらである。そのために何兆もの補正予算が投入されるのだ。実際は、実に歩留まりが悪いのだ。
国民の10人中2人が本気でやめさそうと思えば政治献金なしの投票だけで簡単にやめさすことができる。


それに匹敵する以上の票が「浮動票」や「棄権票」の中にある。


それが選挙に生きてこないのは、特定権益のごたくに反対する反対意見が、政策として理解されないまま「負け票」として処理されてしまう現状があるからだ。


自民党(の建前)とほとんど同じで、自民党(の本音)とは全く異なる政策は、不真面目で勉強不足の市民には自民党政治と見分けがつかない。(ここだいじ)


不真面目で勉強不足の市民は「ほとんど同じなら、選挙いかなくていいや」とたかをくくっている。


そのツケがまわって日本が沈没寸前になっているのにも関わらずだ。


いっそサイコロを振りたくもなるではないか。