◎ I am I. わたしはわたし
アイデンティティという言葉がある。
ある意味では流行語だったと言ってもいいかもしれない。
最近はこの言葉を聞く機会が減ったような気がする。
アイデンティティ=自己同一化。
自分は自分。
ひとはおもに、思春期に前後して、アイデンティティを段階的に獲得してゆくことが多い、と、言われている。
しかし何パーセントかの人は思春期に、この自己同一化を突然「体験」する、とも、言われている。
それはある種の「生まれ変り」である。
実は、わたしはこれを体験した。
実際に起きてからずっとあとに、あのときのあれがそうだったと本で知った。
それは高校2年の春休みだった。
わたしは高校の宿舎から帰省していた。
そして、たった数時間のピークを境に、突然生まれ変わってしまったのだ。
実際、それは一週間ほど前からの予兆から始まった。
ある日、ごく近い将来、自分の価値観や精神構造が大きく変わってしまう、という気がして、そして、それは日増しに強くなった。それはそのころの日記にも書いてあって、不思議な事に明確に「一週間後」とまで書いてあった。
小学校のころ、わたしは友達づきあいの苦手な子供だった。
特に、リーダー格の人間に無批判に群れ従う同級生達をまったく信用していなかった。
そんなわたしにも高学年のころには親友ができた。
それから、生まれ変りの日まで、わたしは親友やごく少ない友達に対していつも極端な感情移入をしがちだった。相手の気持ちが痛いほどわかる、とよく言うが、それどころか、ほとんど心がつながっているような感覚に近かった。
何人かの友人とは、この感情の共有を互いに確認しあっていた。
信じられないくらいに気が合うことがたびたびあった。
わたしが好きになったものは、友達も好きになった。
友達が好きなものは、わたしも大好きだった。
ロッキーを見た中学の夏休み、突然ランニングがしたくなった。
早朝に走っていると、朝もやの向こうから親友がやってきた。
スウェットにフードまでかぶって。
わたしは道にへたりこむほど笑った。
互いに確認するまでもなかった。
二人が同時に相手に聞いた。
「生卵飲んだだろう?」
一緒に大笑いした。
高校2年の夏にわたしは一本の劇を書き、地区の合同発表会で一応の評価を得た。
そのときの仲間たちと過した夏は、まさに、奇跡の夏だった。
みんなと気持ちがひとつになり、お互いを心から理解し信頼した。
楽しい。まさに、奇跡の夏だった。
ところが、そんな夏が終って秋が来るころ、なぜかその感覚に違和感を覚え始めたのだ。
わたしは好きなラジオ番組(ラジオ界では今も伝説のコバヤシカツヤとイブマサトのザ・スネークマンショウである。)があって、何度も何度もそのおもしろさを友達に伝えたが、彼らはいっこうに好きにならなかった。
わたしが大好きな音楽をカセットに録音して渡しても、ろくに感想も聞かせてくれなかった。
彼らは相変らず一体となって行動していたが、わたしは時々ひとりでいることが増えてきた。
以前までは共同執筆していた脚本だったが、その夏の成功のために脚本はわたしひとりに任せた方がいいということになった。わたしも創作が楽しくて仕方がなく、自信にあふれていて、ほかのことが眼に入らなくなっていた。
とにかく、そんな日々の中で、なにか小さな違和感を感じはじめていた。
やがて春休みになり、故郷へもどると、友人達とは電話で話すことしかできなくなった。わたしは創作に夢中になり。仲間たちは相変らず演劇部で忙しく共同作業に打ち込んでいた。
なぜか、自分が消えゆくような、小さな喪失感を感じはじめていた。
その日、わたしはまったくいつもと同じに生活していた。
ラジオを聞きながら、当時大好きだったYMOの本を読んでいた。
それはメンバーの手記を集めた写真集だった。彼らの、時代と共に変化していく音楽的試みが、やがて世界ツアーを成功させるYMOへといきつく物語は、いつも、わたしの創作意欲を高揚させた。だから毎晩読んでいた。
そして、とりわけ好きだった高橋ゆきひろの手記を読み返しているときだった。
彼の高校時代の音楽活動や、その当時病んでいた心身症のことなどをつづった手記は、自分と感じ方の共通点が多くて、何度読んでも自分のことのようにとても深く共感できた。
ところが、それまで考えたことすらなかったのに、「自分がいくら高橋ゆきひろの気持ちに共感しても、彼はきっとそんなこと知りもしないだろうな。彼の心の苦しみは彼だけのものだ」と、思ったのだ。
そう、彼の手記には前からこう書いてあった。
「結局、自分と対峙して自分で治していくしかない、そう思った」と。
そうだ、その通り。
その通りじゃないか!
なぜ、いままでずっと何度も読んでいて一度も気がつかなかったのだろう。
やがて、いままで感じたことのない孤独感が暴風のように襲ってきた。
この世界で自分と一緒に生きているものなど、誰ひとりとしていないのだ。
自分が大好きな仲間たち、でもいつか、みんなバラバラに生きていくしかないのだ。
わたしはいつも、まわりのひとと一緒に生きていると思っていた。
家族。
友達。
でも、本当はいつでもたった一人で生きて来たし、これからもずっとそうなのだ。
孤独感。
恐怖。
これから、ずっと、ずっと、いっしょに生きていくのは、このおれと、なのだ。
それは、悲しい時の自己憐憫とはまったく質の違う感覚だった。
いままで、友達にしか感じたことのない共感を、はじめて自分に感じた瞬間だった。
うずまくような孤独感と恐怖の嵐が、やがて希望と期待に変わっていった。
そしてパニックが去ると、自分がなにひとつ失っていないことに気がついた。
家族。
友達。
自分が勝手に彼らを同一視していただけだった。
彼らは、いままでと同じに、いる。
今日、自分に起こったことなどと関係なく。
そこに。
いままでと同じに、いる。
そして、新たに
これからは、自分がいる。