○イェンのこと 前編

1999年、ぼくはある企業の招待で上海へ視察にやって来ていた。


夜、ナイトクルーズをするというので、ぼくはホテルで一行と合流した。
小雨の上海市を川からみる眺めはすばらしかった。
水と風を分けて進むクルーザーのデッキは心地よかった。
その後、現地ガイドの案内でクラブに行くことになった。ガイドの注意を良く守り品行方正に過したご褒美だそうだ。
それまでの時間をぼくの担当の後藤君とホテルのパブですごす。
昨夜2人がてこずったビリヤードは掃除され、磨かれた球がならべて置かれている。
まだ込み合うには少し早い。
洗いたてのグラスが並び、ナプキンが綺麗に畳んである。
そうなれば、やはり、ギムレットにするべきだろう。


昨日の彼女たちは見当たらない。
摘発されたのかもしれない。
やがて、クラブへ行く時間になったので、二人でロビーへ降りた。


そこは古風な煉瓦造りの建物の中に無理やりカラオケボックスを押し込んだような趣で、入り口には確かに「クラブ」とだけ、カタカナのネオンが光っている。
中身はカラオケボックスだが、クラブと名乗るだけあって一人一人にチャイナドレスの女性がつく。


最初4人づつで2部屋を借りることになっていたが、ぼくらの部屋には仲間の日本人客が5人いた。3人グループとぼくと後藤君だ。
当然女の子は4人しかいないがそんなことはどうでもいいので、適当にはじめていたら、ママさんがそのことをやたら気にして、誰か一人は日本人が3人になってる別の部屋へ移れとうるさい。しょうがないのでぼくが移動した。すると、そこの部屋では待ってた客が一人足りないので女の子は3人になっていた。やっぱりそんなことおかまいなしにはじめようとすると、ママさんがぼくを呼んで手配に失礼があったことをわびて入り口に並んでいる女の子を、誰でも一人気に入った子を連れて来いと言う。
仕方がないので言われるままに入り口に戻った。
そこにはチャイナドレスの女の子が並んでいるが、どれも化粧が濃くて馴れ馴れしい感じがする。
中に2人、背が低くて化粧の薄い女の子がいた。その中の一人は髪はショートでそれを飾りのついた小さなピンで止めている。赤いドレスが似合っている。目が大きい。
ぼくが指名すると彼女はちょっとどぎまぎしていた。
彼女を連れて部屋に戻ると、彼女は「夕子です」と名乗った。
日本人ホステスがチャイナドレスを着て「リン」と名乗るのと同じだ。
本名を聞くと「艶(イェン)」という。
彼女は破れたジーパンに無精ひげというぼくの外見が相当気に入ったらしい。
こんな場所では、優越感を与えてくれる日本人は貴重に違いない。日本人同士で話し込んでいると、勝手にジーパンの穴に指を入れてくる。
名刺を見せろとうるさいので渡すと「総経理?」と聞いてくる。日本でいう社長のことだ。
そうだと言うと、イメージとのギャップがよかったらしい。大いに気に入っている。
年齢は20歳。とにかく日本語がすらすら出てくるので驚くと「でもまだ日本語習って3ヶ月」だと言う。この店は今日が初日だと言って周囲の日本人を驚かせた。青森出身だと言えば通じる程度のナマリしかない。


まわりでは言葉のコミュニケーションがあっさり限界に達してボディーコミュニケーションに移行している。女の子達も話すよりも疲れないらしく、無表情で触らせている。


ぼくとイェンだけは大いに会話が盛り上がっていた。
それにしても日本語がうまいと思って交際相手を聞いてみると、案の上、日本人の彼がいるが、東京に戻って以来連絡が途絶えていると言う。
ぼくを睨むように見ながら「日本人は性格悪いの?」と口を尖らせている。
「そうだ。80%の日本人は性格悪い。おれもそうだ」と言ってやるとにこにこしている。「だけどもう終わり。なんで電話くれないの?って怒ったらそれっきりだもん」と言っている。
「はっきり別れるぞって言ってやったか?」
あいまいな笑顔でうつむいている。どうも、はっきりは言えないらしい。
そして彼女は日本に行きたいと盛んに言う。
「わたし上海しか知らない。中国はつまらない。日本へ行きたいな」
中国人が日本に来るのは相当難しい。すべて政府の審査があるので、一般人にはまず許可が下りない。蛇頭の話なども意外によく知っている。
「でも来年には観光で日本に行きたい。行ったら会ってくれますか?」
「ああ、いいよ。よかったらうちにステイしてもいい。美人の奥さんと子供達を紹介してあげる。でも東京からは遠いな。ぼくのいる街は上海よりもずっとつまらない田舎だよ」
それから今日は団体行動をはぐれて一人で歩いたことがなんとなく話題になった。
「どこに行きました?」
「うん、南京路を端から端まで歩いたよ。それから第一百貨店へ行った」
「第一百貨店、人が多かったでしょ?」
「うん。おのぼりさんの中国人が沢山いて買い物なんかできなかったよ」
「おのぼりさん?」
「田舎の人」
彼女はびっくりするような大声ではじけるように笑った。上海っ子にとって田舎からの観光客はいつも笑い話のタネなのだ。第一百貨店はそのおのぼりさんが群れをなしていて、普通に歩くこともできない。
「そうそう!あそこは田舎の人いっぱい。どうしてわかった?」
「だって服がヘンでしょ。それに化粧もしてない」
「顔がまっくろで!」
彼女は最先端都市の生粋の都会っ子なのだ。
「だから伊勢丹でショッピングしたよ」
伊勢丹は同じ商品が2割ほど高く、おのぼりさんは少ない。
「もっとたのしいところあったのに!ほんとにおもしろい所があるんですよ」
彼女は自分の好きなショッピングエリアの話をしながらとても悔しそうだった。
「昨日の夜ホテルで話し掛けてきた女の人に、ガイドを頼んだのに約束の時間に来てくれなかったんだ」
「あの人たちには気をつけたほうがいいですよ。変なところへ連れて行かれてしまう」
「そうかもしれないな」
「明日はもう帰りますか?」
「朝起きたらすぐ帰る。昨日ここへ来てればよかったね」
「そうね!そしたらわたしが案内してあげられたのに!」
そういうと彼女はしばらく考え込んでいた。心底残念そうだ。
それから恐る恐るたずねた。
「今日はこれからもう寝ますか?もう疲れた?」
「いや、疲れてないよ。どこかへ連れて行ってくれる?」
「うん、お店終わったら食事に行きましょう!それから友達のいる店に案内します」


ガイドからはこういう誘いには絶対に乗るな、とさんざん言われていた。
日本人観光客の略奪事件が頻繁に起きている。身包みはがされるだけでなく行方がわからなくなることもあるという。
会話を聞いていた店の先輩達も、その話が出るや彼女を集中して非難し始めた。
どうやらこの店はツーリスト会社から紹介を受けている手前、トラブル防止のためにこういう店外デートを固く禁じているらしい。初日の彼女にはわからないことだったようだ。それでも、もう帰るという頃に彼女はぼくの名刺に部屋番号をこっそり書いてくれと言った。そして彼女の携帯電話の番号を受け取った。


クラブを出て、ホテルに戻ると午前1時をまわっていた。
後藤君がぼくを本気で心配して、ぼくの部屋までついてきた。
二人で雑談していると、やがてやかましく電話が鳴りはじめた。
「あ、本当にかかって来た!ほんとうに行くんですか?」
「後藤君も来いよ」
「いや・・・」
電話はじんじん鳴っている。
後藤君は目を泳がせている。
「へんなことにはならないと思うよ。保証はないけどな」
「やっぱり遠慮しときます」
後藤君は彼女ができたばかりで純情だ。別の意味でへんなことになるのを心配しているようだった。それはない、とぼくは確信していた。
ぼくは受話器を取った。
「はい」
「こんばんわ!」
「イェン?店終わった?」
「終わりました。えーと、ホテルの一階まで来てくれますか?」
「ああ、うん」
「じゃあ10分で行きます」
ぼく達は部屋を出た。後藤君は13階でエレベータを降りた。招待客に万が一のことが起こることを心底心配しているようだ。
「じゃあ本当に気をつけて」
「おやすみ」
ロビーに降りて、ぼくは一人で彼女を待った。
やがて、イェンがタクシーを降り、足早にやって来た。「いきましょう!」
回転ドアをくぐりながらぼくはイェンに言った。
「あのね。ぼくは明日帰るでしょ。だから元をあんまり持ってないんだよ」
「いくらありますか?」
「300元とちょっと。あと円は少し持ってる」
「だいじょうぶです」
彼女を先にタクシーに乗り込ませると、彼女は中国語で運転手に行き先を告げた。
どこへ向かっているのか、さっぱりわからない。
「これから行くところは、香港のヤムチャの店です。人がいっぱいいます」
彼女の「人がいっぱいいます」というのは流行しているという意味だ。
タクシーは初乗りが10元だ。およそ130円。中国は衣類と食事は極端にレートが低い。携帯電話は本体価格はおよそ10万円に相当するが、通話料は5分で10円とびっくりするくらい安い。ブランド品は日本の半額くらいだが、給料が10分の1の中国ではとてつもなく高い。
彼女は携帯電話が最新式なのと時計がグッチなのを自慢した。ブランドを嗜好すると20歳の彼女にはわずかな買い物しかできない。
「将来は日本で仕事がしたいの?それとも上海で日本の仕事がしたい?」
「日本で仕事するのは難しいです。上海でいいが仕事したい」
「そうか。でも、中国はきっと日本よりいい国になるよ」
「そう?」
「うん、国は広いし、人口もたくさんいるし、世界中に華僑のネットワークがあるからね。君達が本気になったら、世界一の国になるよ。日本はもうどうしようもないよ。ぼくは東京よりもここの方がいい。いい国だよ」
ぼくたちはタクシーを降りた。
もう夜中の2時を回っているのに、紙コップを持った小さな子供が素足で走ってきて金を入れてくれとぼくにせがむ。父親らしい男がそれをじっと見守っている。
ぼくらは振り切るようにして店に入った。
いい国、ぼくにはさっきの会話が急に空しく感じられて、その話を続けることはできなかった。
店に入ると前の椅子が空いているのに、彼女はぼくの隣に座った。
仲良く並んで雑談を続ける。
「ぼくはわからないから、好きなのを頼んで」
中国語のメニューを差し出すと、彼女はテキパキと注文をはじめた。
「この店で一番人気のある料理は二人分たのみますね。あとは一人分でいいですね」
やがて運ばれた料理は、ぼくらがツアーで毎日食べさせられた老舗のフルコースとは比べ物にならないくらいまずかった。それでも会話が食をすすめてくれた。
やがて、彼女お勧めの卵料理が出てきた。それはその店で出されたものの中でも格別にまずかった。ばさばさして、ミントのしつこい香りがした。
「おいしいでしょ?」
と彼女は言った。ぼくを覗き込む目を見ると自然と笑みがこぼれてしまう。
彼女も同じ料理を口に入れた。
「あれ?味が変わった」
「前よりおいしくない?」
彼女はあわてて伝票を確認している。そして笑い始めた。
「ごめんなさい。わたし間違えた。これぜんぜん違う。まずい!」
二人で笑った。
店を出ると、さっきの親子がまだ立っていて、父親の方がぼくに空っぽの紙コップを差し出した。何かを盛んに話しているが、押しつけがましく強制的な口調だ。子供は別の相手に同じことをしている。
彼らは昼間働くことよりこれを選んだのか、それとも他にすべがないのか、ぼくにはわからなかった。彼女は怒りの声を父親に投げかけた。
日本のホームレスは物乞いをしないと言っても、彼女にはどういう意味かわからないだろう。ぼくたちは足早にタクシーに飛び込んだ。
中国のタクシーは乱暴だ。その上、彼女が道順をいちいち指図するのでタクシーは盛んに車線を変更して、くるくると曲がった。景色は怖いほどの速さで過ぎ去っていく。ぼくらが日本語で話すと、運転手がちらちらとイェンを見た。


やがてタクシーは人気のない古びたビル街に入ってゆき、やがて、真っ暗な街路に一箇所だけネオンが燈った場所に来て、タクシーはそこで止まった。
入り口近くの歩道にはこの国ではまだ少ない個人の乗用車が数台横付けにされ、運転手というよりチンピラと言った方がまさに間違いのない男達が所作なさげにたむろしている。


かなりやばい雰囲気だ。