○イェンのこと 後編

前編は昨日の日記にあります。




タクシーを降り、男達をかわして建物の入り口に入ると、彼女が口早に言った。
「ここは上海に住んでいる人はタダだけど、観光客は入り口でお金がいります。
でもあなたはお金いりません。あなたは日本の留学生です」
常連は顔パスで、入り口で金を払うのはおのぼりさんということだ。都会っ子のプライドにかけて彼女は強行突破するつもりらしい。
中は顔も見えないくらい暗く、すぐに地下へのコンクリートむき出しの階段がある。
階段を下りていくと、途中に椅子に座った男がいる。一目でチンピラとわかる男の前に置かれた小さな箱にはお金が入っている。彼女が無言で男の横を通り過ぎた。ぼくが行こうとすると男がなにやら話し掛けてくる。彼女がきつい口調で言い返した。男は身体でぼくを押しとどめようとするが、彼女がぼくの腕をぐいぐい引いてとうとう通り過ぎてしまった。後ろからまだ何か言っている。


地下に下りると、暗いホールを横切って廊下に出る。そこも牢獄のように暗く、両側に殺風景な部屋がならんでいる。オフィスの廊下のように殺風景な通路を足音を響かせてどんどん奥へ行くと、つきあたりに小さなパブがあった。


内装と呼べるものはなく、木の床にビーチテーブルがいくつか置いてある。飲み物はすべて、ビンのままかかプラスチック容器で出てくる。灰皿はなく、床に吸殻を捨てる。若い不良上海っ子たちの溜まりらしい。
イェンはまっすぐ突き当たりのテーブルに歩いていく。そこに若いカップルがいて、男の方は机に突っ伏して眠っている。
「こんばんわ。奈菜」
「こんばんわ。夕子」
ぼくらはそのテーブルに座った。彼女達は普段から日本名で呼び合っているらしい。
「この人、わたしの前いた店の先輩で友達です。こっちで寝ているのは日本人です」
奈菜と名乗った女の子は、日本語を勉強して6年だと言った。旅行会社のガイドをやって、それから日本人相手のホステスをはじめた。イェンとはそこで知り合い、最近イェンだけが店を移ったのだという。
気配を感じて、若い男が顔を上げた。目の優しい気の弱そうな青年だ。
「はじめまして。泉谷です」
ぼくらは名刺を交換した。
「観光ですか?」
「そうです。こちらは長いのですか?」
「いえ、3ヶ月です。その前は北京で留学していました」
「仕事は何を?」
「おもに食品サンプルの貿易です」
「この人はへんな日本人です」
イェンがそう言って笑った。
「彼はお金ないの。ここへ来て3ヶ月で50万円使ってあと残り5万しかないの」
奈菜と名乗る女の子がそう言って笑った。
「笑うな。おまえのせいじゃないか」と泉谷青年は言った。
「だってアパート変わったじゃない」
「そんなの6万円しか使ってないよ」
「そうだったっけ」
「そうだろ?」
「じゃあどうしてもうお金ないのよ?」イェンが笑いながら言った。
「ちぇ、勝手にしろ」
「この日本人はやっぱりおかしいよ!」
イェンが大きな声で言った。奈菜が陽気に笑った。
「もちろんだ、おれを含めて80%の日本人はおかしい」
ぼくも笑った。
「わたしたち、昨日もここで飲んだんですよ。何のみますか?」と奈菜が言った。
「ソフトなやつ」
「わたしたちはいつもテキーラです。昨日は夕子ちゃんは3杯飲んで、ふらふらになって帰っちゃった。そこで転んだんだよね?」
「夕子ちゃん!お願い!その話はしないで!」
彼女達は小さなプラスチックコップのテキーラを一気に飲み干すと手に乗せた塩を舐めた。泉谷青年はテキーラをすべてテーブルにこぼしてしまった。
「彼女達は狂ってますよ。カネのことばかり話してます。給与水準が低いのに高価な買い物ばかりしてます。だから、あんな仕事までして。
公園でお年よりたちを見ると、彼女達が変わってしまったのがよくわかります。お年寄り達はとても幸せそうですよ!」
泉谷青年がとつぜん真面目な顔で言った。彼女達に金を与えたのは君だろう、と言うのをかろうじてこらえた。
奈菜が彼のこぼしたテキーラを拭いている。
「それは天安門以降変わったんですか?」
「いえいえ、清国が滅びて以降かわりました。それ以前に生まれた人たちはなんとも言えない、いい目をしています。彼女達はカネカネカネだ」
「それは東京の女の子達もおなじでしょう」
奈菜がうなづいている。イェンはきょとんとぼくを見ている。
「そうかもしれないけど・・・」
「問題は、どうやって稼いでいるか、でしょう。ぼくは人を金の使い方ではなくて、稼ぎ方で判断しますよ。お金の額ではなく、なにをやっているかでね。
公園のお年よりも、彼女達も、それぞれにそんなことはわかっていると思いますけどね。少なくとも東京の女の子はグッチのために外国語を習ったりはしないでしょう。彼女達の世代で、日本は負け、ですよ」
「それはそうですが、彼女達はまだ知らないんですよ。稼ぐってこと。自由経済ってやつをね」
「そんなの、ぼくだって知りませんよ」
彼女は上海でいい仕事をしたいと何度も語った。
そしてわずか3ヶ月で日本語をここまでマスターしたのだ。
彼女の国を軽蔑していられるのはいつまでだと思っているのだ。


泉谷青年は彼女達が無謀ともいえる買い物をして、そのために日本人にたかるのを見ていられないのだろう。そして彼女達に完全に巻き込まれて、どこにでも連れ出されているらしい。彼はそれを拒否できず有り金全部使い切ったのだ。
そのくせ、彼はそんな見方をされるのが嫌でたまらないのだ。
ぼくではなく、彼女達に。


一時間ほど話をして、ぼくたちは店を出た。払いはぼくが済ませたが、金は十分足りた。
「わたしたちは歩いて帰ります」
イェンはそう言ってぼくを恋人のように歩道へひっぱった。泉谷と奈菜はタクシーで帰っていった。
歩きながら、ぼくとイェンはいろいろな話をした。
「泉谷さんはへんな人です。でも、かれは奈菜ちゃんがすごーく好きです」
「そうだね」
「でも、奈菜ちゃんは、ほんとうは彼氏います」
「泉谷君は知らない?」
「うん、とても背が高くてとてもかっこいい中国人です。彼女も悪い性格ですね。日本人のこと言えない」
「でもいつも泉谷君といっしょにいるんだろう?」
「そう。そうですね」
「泉谷君はそれは自分のお金のせいだと思ってるよ」
「そうじゃないのに、最近彼はちょっとへんです」
「お金がなくなったから、きっと心配なんだよ」
「そう・・・でも友達ですよ。本当に」
「きっと彼はそれがわかっていないんだよ」
彼女たちのために金を遣うことを自制できず、同情されているのは彼のほうだ。彼はいったい、いつまで飲んだくれるつもりだろう。


ぼくらはホテルまでずっと歩いた。途中腕を組んだり、肩を抱いたりして人気のない国道をずっとずっと歩きつづけた。タクシーを使わなかった理由はよくわかる。ぼくももっと話がしたいと思っていた、でも、ホテルでは嫌なのだ。


彼女は失業寸前の父親の話をした。政策で生まれた一人っ子には現実逃避することが許されない。いざとなったら、一家の働き手になるしかないのだ。だから日本で働いたり、日本人の彼と結婚したりすることは、夢には見ても現実にはできないのだと言う。
人気のない街路を二人の足音だけが響いている。恐ろしく高い高層ビルが次々と建てられ、アパートでは今もトイレをバケツで毎朝汲みだしている街。
目的が明確で、すべてに優先させて貪欲に発展する街。
貪欲にならなければ、アパートからは出られない。
ぼくはちょっとだけ、イェンの肩を抱く力を強めた。
「でもイェンは日本語上手じゃないか。今日一緒に来ていた日本人も驚いていただろう。あの人の会社も上海にあるんだよ。もうちょっとがんばれば上海できっといい仕事が見つかるよ」
「うん。わたし必ず日本語一級をとります」
「がんばって、きっとだいじょうぶだから」
ホテルに近づくころ、彼女はぼくの腕からするりと抜け出した。
やがて、目の前に見慣れたホテルの玄関が現れた。
「今日はちょっと疲れました」
「よかったら部屋で休んでもいいよ?」
「わたしたち、そういうことは絶対しません」
「わかってる。そんな意味じゃない」
ぼくたちは笑いあった。
「今日はとても楽しかったよ。ほんとうにありがとう」
「わたしも楽しかったです。また上海に来ますか?」
「うん、きっと来るよ。また会おう」
「はい。電話してください」
彼女はちょっとだけぼくに近づいた。そしてちょっとうつむいた。
「あの・・・円を少しください」
彼女は小さな声でそう言った。
昼間ガイドを雇おうとしたと話していたので、ぼくは当然そのつもりだった。一万円を渡してこれでいいかと尋ねた。彼女は小さく頷いた。
その金は彼女達の半月分の生活費以上だとぼくは知っている。そして、彼女はその金がぼくにとっては取るに足らない金だと知っている。
埋めようのない溝が、そこにはある。
「君のお蔭で上海へ来て一番楽しかった。ほんとにありがとう」
「そうですか?うれしいです」
彼女はにっこり笑った。
「それじゃ」
「また会いましょう」
ぼくは彼女と別れて歩き始めた。
「待ってください」
彼女はそう言って走りよってきた。
「今日のこと、ツーリストに内緒にしてください。絶対に」
「絶対に言わないよ」
彼女はじっとぼくを見た。ぼくは彼女を軽く引き寄せた。自然に唇が重なった。
彼女の舌がゆっくり入ってきて、ぼくは彼女を抱きしめた。
「それじゃ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」


ホテルの回転ドアの前で最後に振り返ると、彼女は看板の影に隠れるようにして、通りかかるタクシーを待っていた。