○自分がこの世界にいて、あなたと恋に落ちること

有史以前から人は絶えずこう問うてきた。


自分はなぜここにいるのか。


自分はなぜ苦悩するのか。


あるいは、自分はなぜ恋するのか、でもいいだろう。


あるいは、自分はなぜこの人と恋に落ちたのかでもいいだろう。


あるいは、自分はなぜ、こんなにも不幸なのかでもいいだろう。


今夜は、それら多くの疑問について理由を考えてみよう。


およそ4000年以上に渡って、あるいは文字が生まれる以前から人は悩みに悩んできた。


「なぜ、自分はこんなにも悩むのか」


ある時期、こんな言葉が生まれた。


「われ思う、ゆえにわれあり」


思考するから自我があり、だからこそ悩みが生まれる。


それはしかし、未熟な答えだった。なぜ悩みが生まれるか決定的なことを説明せず、どちらかというと自我の定義に収支しているだけだ。
実にいいところまでいったが、これはボールである。


ところが20世紀の終わりに、まったく逆のアプローチから一つの答が出てきた。


それが「人間原理」である。


宇宙には不思議な「定数」がいろいろある。


例えば中性子の重さ。これを決定する法則はない。たまたまこの重さとして宇宙は誕生した。電子の電荷もしかり、宇宙の物質の量もしかり。ほかにもいろいろ、いろいろ。


その複雑な「定数」のパラメータは、なんであってもよいはずなのに不思議な事にこの宇宙は実に見事なバランスで定数が決まっている。
どれか一つでも定数が違っていたら、今のような宇宙ではありえない。


ある意味でこれは、宇宙を宇宙たらしめる究極の謎である。


そしてこれは、どう考えても人間を創造するために誰かが画策したとさえ思えてしまう。誰が、こんな画策を行ったのか。


神か?


偶然にしては、あまりにもできすぎているからだ。
サルがでたらめにキーボードをいじっていて、シェークスピアを書き上げるほどの偶然。これはなんなのか。


そして、20世紀の終わり。長い間の問いにとうとう結論が出た。


ディッケやカーターという宇宙物理学者たちは、人間原理を用いてこの問いに見事に答えている。


宇宙がいまのような姿でなければ、例えば中性子の重さがわずかに重いだけで、宇宙は開闢と同時にダンゴになったかもしれない。
もちろん、そんな宇宙に知的生命が発生し進化できる余地はない。
つまり、そんな宇宙を宇宙であるとだれひとり認識できるものがその宇宙内に存在しないので、そんな宇宙は存在しないも同然なのだ。


そして、その逆に、この宇宙がこのように複雑巧妙であることは人間という知的生命を生み出すのにたまたま適していて、そしてその人間は知性を得てその複雑巧妙さに目を見張っている。


われわれは、なぜ悩むのか、それは悩むほど高度な頭脳を持った人間でなければ得られない疑問であるし、悩むほど高度な頭脳を持った人間ならば、その疑問で悩むのはあたりまえなのだ。


自分はなぜ恋するのか。


それは自分が今、恋をしているからだ。
恋をしていない人間はそんなことを疑問に感じることはない。
人間学的に「人はなぜ恋をするのか」という問いと、恋をしている人間の「自分はなぜ恋をするのか」という問いは、同じに見えてまったく違う。人間学は個人の疑問に絶対に正しい答を与えない。


唯一正しい答は、「それは恋をしているから」だ。


自分はなぜこの人と恋に落ちたのか。


それは、この人と恋に落ちてはじめて思う疑問だ。
この人と出会う一瞬前に出会った人とは恋をしていない。
ただそれだけのことだ。


自分はなぜ、こんなにも不幸なのか。


それは、自分が不幸だから生じる疑問だ。
この疑問が生まれるには、「自分が不幸でなければならない」からだ。


人間原理は、深遠な哲学で、悩まないためにすべての答を教えてくれる。
人間原理は、この世の主がだれであるかを明確に教えてくれる。


ありとあらゆる、自分にまとわりつく悩みや疑問を人間原理で料理してみよう。


そして、自分のこころを人間原理で満たしてしまおう。


それは、正しいことのような気がする。


人間原理は、「過去に捕らわれずつねに前に進め」と教えてくれている。