オリンピック聖火リレーとイジメと差別
オリンピック聖火リレーをTVニュースで見た。
ふと思ったのは、あの聖火のリレーとは何か、ということである。
あの火はギリシャのオリンポス宮殿らへんで太陽の光をレンズで集めて点火され、そして世界のどこであろうと、どんな手段を使おうと、オリンピック開催地までとにかくリレーで運ばれ、聖火台に点火される。
リレーは綿密な計画のもと、コースを決められ、走者が選ばれる。
途中なんらかのアクシデントで炎が消えても、きちんと予備の炎がランプで平行移動していて、そこから再度点火される。
バトンリレーは、バトンが移動していく。
聖火リレーは炎が、トーチからトーチへと移され、移動していく。
しかし、バトンリレーと違って聖火はナニガシカの物質が移動しているわけではない。
トーチにはガスボンベから常に、トーチ一本分のエネルギーが供給されるので、ギリシャで採取された太陽エネルギーが移動するわけではない。
物質でもエネルギーでもないものが、移動していく。
なにが移動し、なにがリレーされているのか、よく考えたらさっぱりわからないのに、なぜかそれは次から次へとリレーされていき、全世界で人々がそれをニュースで見ている。参加したランナーには一生の思い出となるだろう。
しかし、実際に移動しているのはなんなのか、よく考えたらわからない。
なんだそれ。なんなんだ。
なんだかわからないものが、移動し、リレーされていく様を綿密に計画し、一生の思い出として走り、感動を持ってみているというのも、実にマヌケな話ではないか。
リレーの瞬間を空想してみると、遠くに聖火が見えたころあいに、次の走者はトーチのガスボンベのコックを開くであろう。
トーチからは無色のガスがシューシュートと出ているはずである。
炎が受け渡されると、それがぼーぼーになる。
それで受け渡されたことになる。
失敗すればシューシューのままである。
シューシューであろうがぼーぼーであろうが、トーチから減っていくガスの量はかわらない。
するとつまり、聖火リレーとは「燃えているぜー」という状態がトーチからトーチへと移動していくことに違いない。
物質やエネルギーではなく「状態」が移動していくのである。
酸化還元反応という現象が受け渡しされていくのである。
聖火リレーとは、現象がリレーしていくことである。
そう考えてみたら、現象が移動していく、ということはよくある。
渋滞という現象は移動していく。
株安という現象も移動していく。
イデオロギーも移動していく。
聖火リレーってなに?という疑問も移動していく。
チェーンメールも移動していく。
移動というとなにか物質が移動する事を考えがちだが、実は、現象が移動する事の方がこの世界では、はるかに多い。
しかし、人間は移動というのは、物質やエネルギーが移動する事だと認識しがちだ。
それは間違った世界観だ。
移動とは、実際にはほとんど、「現象が移動すること」だといってもいい。
また、移動といっても、聖火リレーのように一点から一点へ直線上を移動する場合もあるが、山火事のように拡散的に移動していく事もある。
物質は拡散的には移動できないが、状態はこのように不思議な運動を見せる。
これは、イジメや差別などの集団的暴力現象の拡散移動にも見られる。
現象の移動は「不安定なもの」を媒介に行われる。
聖火トーチのガスはボーボー燃えても、そのままシューシュー空気中に放出されても、どちらの状態もとることができる。
そこへ、前走者の炎という状態が移動してくればボーボーになり、失敗すればシューシューになる。
イジメや差別も、「差別するか、しないか」どちらの状態も取りうる人間の中をどんどんと拡散移動していく。
火のつかないトーチを何本並べても、聖火リレーができないように、石でできた山が決して山火事にならないように、イジメや差別をしないという人間の中をイジメや差別が拡散移動していくことは決してない。
イジメや差別をする人と、イジメや差別をする人の間に、決してイジメや差別をしない人が一人いれば、イジメや差別は決してそれ以上移動することはない。
「迷い」という不安定さがイジメや差別の拡散移動には不可欠な要素なのだ。