○奇跡を呼ぶ男・与える男

わたしには人生に二つのテーマがある。
テーマというからには、これらはまだ達成途上である。
正直言ってまだまだだと思うし、先も見えてはいない。
しかし、この世に愛される価値のある男がいるとしたら、こんな男であろうと思う。


わたしのテーマのひとつは「奇跡を呼ぶ男」と呼ばれること。


人生において、奇跡に恵まれたことは何度かある。


みずから、小さな奇跡を呼び寄せたことも何度かあった。


例えば、何かを達成しようというとき、人はそれ相応の努力をする。


目的に対して割に合わない努力をしないのは経済学的観点からも正しい。
奇跡を起こそうとひたすら努力して、その結果が地味でしょぼかったら、その人は『余計な苦労を背負い込む男』と呼ばれるだけであろう。
まわりにとっては一種の貧乏神である。


しかし、『奇跡を呼ぶ男』も基本的に、ふつうの人ならとっくにあきらめていることをやりつづけることができる男である。
しかも、ふつうの人なら「割にあわない」という計算をくつがえして、きちんと努力に見合った以上の成果を得ている。


そこで奇跡を呼ぶ男の成立要件から、以下のような素養が必要だと思われる。


1.他の平凡な人々が思いつかないような成果予測やアプローチ方を見出す。
2.目的に対して粘り強く努力を重ねる。
3.安易な成果に妥協しない。


1.については、やっと人から認められかけている。
2.については、まったく自信がないが、それでも気づくと3年も同じことをやっている。
3.については、自信がある。もうとっくにそれなりにとりつくろっても良さそうなものなのに、自らの人件費さえつぎこんでいる。


しかし、そうは言っても奇跡を呼ぶ男は、ともすると『無責任な詐欺師』と同じに見られる。わたしにしてみれば、それは結果が伴っているかどうかであって素養に問題がない場合も多いと思うのだが。


奇跡を呼ぶ男の素養1.については天性のバクチ打ちの素質も必要かもしれないが、世の中のさまざまな理(ことわり)を理解しそこから発想する経験も必要だ。個人で研鑚を積む間に、すっかり人から「ガイキチ」呼ばわりされることもあるので、わたしは若いころから同じ素養を持った友達は大切にしてきた。
一人で30回失敗したら、明らかに社会不適格者である。


しかし、5人で6回ずつ失敗しても許容範囲である。


だから、仲間の失敗からは学ぶべき点が多い。
詐欺師同盟は大切にしなければならない。


このようにして、『奇跡を呼ぶ男』への挑戦は日々続いている。


それに比べて『与える男』はその定義も難しい。
いつもなにか、わたしの行動の規範には目的とするものが見え隠れするのだが、漠然としていてなかなか自分でもよくわからない。
今日はいい機会なのでそれを掘り下げて考えてみたい。


『与える男』とは、


ただ単に物を与えることではむろんない。
また、ただ単に自分の時間や精神を人に与えるものでもない。


与える男は、ある種のアンチテーゼから生まれている。
それは『与えない男』である。


与えない男の定義は単純にして明快である。
思考・行動・情動すべての起点が『人から得ること・人に期待すること』で成り立っている。
『愛して欲しい』『理解して欲しい』『評価して欲しい』というクレクレ病質の男であるか、『愛する』『理解する』『評価する』ということは辛うじてできても、そこになんら客観的価値観を投影していない、はっきり言って有難迷惑なものしか与えられない男、ストーカー予備軍である。




人からは「中身がある」「中身がない」と区別されて評価されるが、中身がない男はそもそも、中身を研鑚する思考回路が備わっていない。


与えるという思考回路が備わっていないか、与えることに客観的な価値基準を持っていないので、無価値なものしか与えられない。


それでも世の中はよくしたもので、こういう男も需要がないわけではない。
馬鹿の共食いで互いに仲良くやってくれればよい。


馬鹿同士の喧嘩は悲惨なものである。
できればこんなことには一生関わりたくはない。


与える男は、相手に見合った正しいものしか与えない男である。
与える男は、与える罪も知っている男である。


そして与える男の『与えるもの』も重要である。


それは、おだやかな時間かもしれないし、結果的に金や物かも知れないし、創造性豊かな美術品かもしれないし、一通の電子メールかも知れない。しかし、それがどんなものであれ、必ず自己を投影したその男だけが生み出すことのできるものである。


与える男は、すばらしいものを自らの中から作り出すことのできる男である。


わたしの場合、めんどうなことに安易なものに納得しない性格なので、まず最初に奇跡を起こさなければならない。


ほかにいろいろ与えてもよさそうなものであるが、わたしにとってそれらすべては安っぽいとりつくろいに過ぎない。


『奇跡を起こす男』であり、『与える男』であること、を目標とする男として、納得できないものは一切、与えない。


そんなわけで、わたしの目指すその道のりは果てしない。


ほとんど無理とも言われているシマツである。


こんなのと人生をともにする家族も、ちょっと気の毒だとは思う。