◎人を愛するための基本

人間は弱い。
弱い部分を補うために人とよりそう能力を得た。
それが寂しさ。
したがって、寂しさとは人の能力である。


しかし、デフォルトで人は『赤の他人は嫌い』である。


これも、寂しさと同じく進化で獲得した貴重な能力、テリトリー意識(防衛本能)である。


だから、寂しさ全開のドアホに遠慮なしに接近されるのは恐怖なのである。


寂しく、弱く、欲する人間は、愛する人間に恐怖や不安を与えほかに何も与えることはできない。


したがって、人に愛される価値などない。


サテ、この日記を順番どおり読んできた人は、わたしが常にいいたいことがここに集約されていることはほぼ察しているだろう。


人は、寂しさという能力を獲得した。
また人は、テリトリー意識という能力を獲得した。


相反する性質を基調として、その葛藤から価値を生み出すことに成功したのだ。


わたしも一応初老のはしくれなので、『昔は』といおう。


昔は、ここまで寂しさ全開の馬鹿が野放しになることはなかった。


それはモラルが人の行動に厳しい制約をかけていたからだ。


モラルは、『愛される価値を創造するまで、人に愛されようと近づいてはならん』という一つのテーゼを与えてくれていたのだ。
そこで、『男子十歳にして席を同じうせず』と厳しく行動を制限したのだ。


もしも、寂しさ全開で遠慮なしに突進してくるのが価値のないドブスだったら、kidoは即刻バットで打ち返し、場外へと美しいアーチを描いて見せるだろう。


しかし、これが美しい女性なら、話はまるで別だ。


寂しさ全開の美人が突進してきたら、わたしは全力でうけとめる。(きっぱり)
わたしの美人のおくさんは、拍手喝采してこれを『そのとーり、こいつはそういう男だ』と言い切るだろう。心当たりがありすぎるからだ。


価値観が普遍的とは言いがたいわたしの発言の偏った雑音部分を除去し、真理の法則へと再定義するとこうなる。


価値のある相手なら、寂しさ全開でコントロールを失って突進してきても可なのである。


ブラピが突進してきて逃げ出す女性は、出川哲郎が突進してきて逃げ出す女性より遥かに少ないのは、ブラピには価値があるからだ。


そして、価値があることを認める、とは、個人の現象ではこれを『好きになる』という。


つまり、相手が自分のことを好きなら、突進してよしなのだ。(程度によるが)


告白する前に、すでに勝負は決まっている、というあたりまえのことだ。
相手も『好き』だったらYESだし、『嫌い』だったらNOである。
そのくらい、リサーチしてから告くれよ、である。


まったくもって、あたりまえだ。


寂しく、弱く、欲する人間は、愛されることで愛する権利を得るのだ。


愛する者に嫌われたくなかったら、それ以前に1mmでも相手に近づいてはならない。


自分の寂しさ、弱さ、欲望を微塵も相手に見せてはならない。


まず、その寂しさ、弱さ、欲望を糧に自らを研鑚し、価値を高めなければならない。


そして、相手に少しずつ好きになってもらったら、自分も少しずつ近づいていいのだ。


これこそ、進化の過程でチューニングされた、人間の寂しさとテリトリー意識の矛盾が、人類の価値を創造する巧妙な仕組みだ。


寂しさ、弱さ、欲望が強ければ強いほど、それを原動力にして自らを磨き相手を惚れさせろ、といいたいのだ。


孤独は、自分を高める貴重な能力なのだ。


そういう人は、寂しくなく、強く、インポテンツなわたしよりも、遥かに上等な人間になる根拠を持っている。


このわたしを超える寂しさ、弱さ、欲望をもつならば、このわたしを超える上等な人間になってみせろ、こんちくしょー、なのである。


寂しさ、弱さ、欲望を利用して、母性本能や庇護欲に訴えるような、せっかくのチャンスをどぶに捨てて、性欲単細胞男や恋愛中毒馬鹿女になってたかが股間股間の衝突に人生を費やすのは、もったいないことなのだ。


寂しさ、弱さ、欲望は得がたく貴重な能力で、その高い能力を正しく使うべきなのだ。


いい女は、相手を惚れさせる魅力を持ち、決して惚れたことを見破らせず、そして、相手の男をうまく誘導して価値ある男に変えてゆく。


人類の半分以上が、いい男といい女だったら、世界はもっとましになる。


正直、腐ったカップルの数と犯罪件数は正比例すると本気で思っているのだ。