◎生まれ変ったらセミになりたい

死後はない、と何度も言い切っておいてこれかい。


・・・・・・・・・・・・・・とお思いの読者も多いことだろう。(T_T)


その通り、わたしは死後になにかあるなどとは微塵も思ってはいない。


ただ、もしも次に生まれ変るとしたら、あるいは、もしも人間に生まれたのではなかったとしたら、なにがいいか、という話である。


人間をわずかな期間やってみて思ったのは、このカテゴリは一面おもしろくはあるが、生き物の中ではとても特殊である、ということ。


一回で十分である。


人間の最も他の生き物と違うところ、最もわたしが嫌な所は


『悩むほどの知能を持って生まれ、悩んでばかりいる』


という宿業である。
まったくもって度し難い生き物だ。


シンカノカテーで獲得した唯一の特殊機能は不幸を感ずる知性だった。
生きるために備わった知性で『なんのために生きるのか』を真剣に悩んでる。
生命界もいろいろいるが、これほど馬鹿な生き物もめずらしい。
あまつさえ、ほかの生き物を哀れんだりする。
もはや、手のうちようのないノウテンキな生き物である。
単細胞動物を馬鹿にするが、ゾウリムシの方がよほど真剣に生きている。


こんな生き物を『神』が救うだろうか、それは確かではないが、救うとしたらすべての生き物の一番最期に嫌々しかたなく救うことだろう。
わたしが神なら間違いなくそうする。
ところが、宗教と言う共依存集合体では『行いが悪いと来世では畜生になる』などと自分たち人間が一番のようなことを平気で言う。


恥ずかしいったらありゃしない。
同じ人間として畜生にはいっぴきいっぴき謝って歩きたい気分である。


幸い他の生命に知性などという馬鹿げた能力はないが、あったとしたら、人間の馬鹿さ加減に『あんな恥ずかしい生き物にだけはなりたくない』とつくづく思うだろう。


『ああよかった!人間に生まれなくて』と。


そんなわけで、わたしがもし人間の代わりに生まれたとしたら、人間でさえなければ、他の生き物なら別になんでもいいのだ。


そこであえてセミを選んだのは、なにしろ、シンプルではっきりしている、と言う点だ。もちろん、わたしが人間だからそう思うのであって、これはいかにも人間らしい馬鹿げた感傷にすぎないことは承知している。


しかし、セミがうらやましい。


ぐーたらするときは土の中で7年もの長きにわたって思う存分ぐーたらする。
仕事も教育もなにもなしである。ただただぐーたらしている。
腹が減ったら、木の根っこを吸うだけである。労働らしい労働は一切しない。
究極のヒッキーである。
そして、歌い騒ぐ時は、たった一週間の間に一生分のエネルギーをすべてつぎ込んで狂ったように歌い騒ぐ。騒ぐことで馬鹿なガキを呼び寄せたりすることもおかまいなし、健康のこともおかまいなし、全精力を傾けてそれこそ命果てるまで騒ぎ狂う。
そして、最初に出会った異性を選びもせずに、愛の言葉も言わずギシギシと交尾する。
ブスも馬鹿も貧乏も関係ない。見つけたら即挿入である。
ラブレターも、プライドも、自分を磨く必要も、ない。
そして、灼熱のアスファルトにボトッと落ちて尚死に切れず、じじじじじとあがきながら、生きたままアリにたかられて死んでいく。


まさに、これこそ生であり、死である。


ああ、どうして人間になど生まれてしまったのか。


どうして人間になど生まれてしまったのかなどと『こんなところ』でちまちまと書いている悔しさ、わずかな投票数に一喜一憂するせつなさを、いったいどうしてくれようか。


業腹ではあるが、人間に生まれた以上、もっとも人間らしく悩み、もっとも人間らしく苦しみ、もっとも人間らしく無様に死んでいこうと、悔しさせつなさを噛みしめながらも誓うのである。


人間に生まれた、というだけですでにダメダメである。


人間に生まれた、というだけで今日の生き方ランキング最下位確定である。


だから、他の生き物のようにスマートにシンプルに生きることを切望して圧倒的に無駄な努力をするよりも、いっそもっとも人間らしく、ネチネチちまちまクヨクヨと生きるのである。


ささやかな悪行を働いては後悔し、子供を愛しながらどやしつけ、永遠の愛を何度も誓い、苦悩と幸福と矛盾に全知能をそそぎこんで、すべてを感受して生きるのだ。


たとえ神にだって、この生き方にとやかく文句は言わせない。