○それにたいした意味はない
仕事柄、不幸に見舞われた人との接点が多い。
人は、微妙なバランスの上で今の生活を維持していて、
それは永遠に続くような気がしていても、実際には簡単にそれは崩れる。
職を失う人、家を失う人、家庭を失う人、自分の一部を失う人。
それは耐えがたい苦痛であり、底なしの深みへ沈み行く感覚である。
出口のないトンネルを手探りで歩く感覚。
いつまで続くかわからない、絶望。
しかし、一方で、われわれが想像もできない苦境の中で、一歩一歩前進しようという人もいる。
人からはどん底とも言える境遇の中にさえ、笑いがあり、生活がある。
その強さ、美しさに、人は深く感動する。
どれほど恵まれた境遇でも、一歩さがれば不幸を感じ、どれほど絶望的な境遇でも、一歩進めば幸福を感じる。
そう考えてみれば、幸福も、不幸も、同じである。
何がどうであろうと、不幸なものは不幸であるし、幸福なものは幸福である。
人はわざわざ不幸になるために生まれてきたのだろうか?
ある意味で、それは事実だろう。
人はそもそも、遺伝子の器として生まれたにすぎないのだから、自我があるだけでも丸儲けだ。
きっと、現状に満足せず、他の生き物や自然の猛威から身を守るため、つねに努力を怠らないための原動力として、幸福感と不幸感と言う能力を長い進化の末に得たのだろう。
だから、不幸であることは不思議ではない。
不幸であることは異常でもない。
不幸感は、歩くべき道を指している。
そこへ行け、と言っている。
あるいは、休め、と言っている。
時には、病気になった猫のように、癒えるまで物陰でじっとしているべきときもある。
不幸に負けない努力をすることも必要だし、どっぷり不幸につかる必要もある。
どちらにしても、その人がなにかを選択した時、あるいは、なにも選択しないときでさえも、望まないものを自ら選択する事だけは、どんなに利口で合理的な人間にもできはしない。
すべては自分で選択していることなのだ。
苦しむことさえ、生きて選択しているのだ。
それが結論だし、それが生というもののすべてだ。
幸福でなければ負け、ではないし、不幸を打ち消すことが勝ちでもない。
考え込んでいても、全力で走っていても、自らやめなくても、どんなに求めても、求めなくても、やがてそれはすぐに終る。
手の届くほどのすぐそばに、終わりが待っている。
どんな苦労も、どんな不幸感も、あるいは、どんな努力も、どんな幸福もその静寂の向こうではまったくの無価値である。
なにをなしたか、どんな境遇にいるか、どんなことを夢見ているか、結局のところそれは本人以外には大きな問題ではない。
主体が何を見て、どう感じているかだけだし、それはあくまでも主体にだけの問題だ。
たった一人にほんの一瞬愛され、ほんのいっときまっとうな家庭人でいて、たった一度誉められる仕事をしただけで、十分満足することだってできるのだ。
人生に値する金はないし、人生に値する仕事もない。
自分にとってさえ、その人生が無価値であっても。
その無価値な人生を差し出して、それ以外のなにかを得ることはできない。