ザ・ゲーム
気の抜けた試合を見たくないのは誰も同じだろう。
もちろん、白熱した試合を見るのもいいが、もし、自分に参加する技能と資格があるなら、見るよりは参加してみたいと思うのも人情だ。
参加したら、一瞬たりとも気を抜かず全力を出し切らないとゲームは楽しめない。
セオリー通りやって、セオリー通り勝った試合に、歴史的な名勝負というものはない。
負けるべきものが勝ち、勝つべきものが負ける。
勝つとは思ってもみなかった方が勝ってしまうのを名試合という。あるいは、両者拮抗したギリギリの勝負で、死闘の末に勝つ場合も。
としたら、負けるべき者だったら、あるいは試合中に苦戦していたら、それは名試合の主役になれる絶好のチャンスだということだ。
勝つに決まっていると言われる試合で勝つことは、それにくらべれば劣る、ような気がする。
少なくとも、そんな名勝負は存在しない。
しかし、ただ闇雲にガンバッタというだけで勝てるほど、勝負の世界は甘くもない。ありとあらゆるチャンスに狡猾に立ち回ることが必須である。
そして、わたしは人生こそが最大のゲームだという気持ちが捨てられない。
セオリー通りにやって、セオリー通りに勝つと言われる方が勝つよりは、負け組にランクされている方が勝つほうがゲームは面白い。
面白くないゲームは、ゲームとしての意味がないのだ。
だから、いつも、強者が必ず勝つようなゲームは存在しない。
かならず体重が重い方が勝つとか、そんなゲームはゲームとして成り立たない。
勝つことは重要だが、ただ勝つだけではいけないのだ。
ゲームとは終ってみればただの経過である。
勝ち負けを競うが、記憶に残るのはその経過に過ぎない。
結果は勝ち負けであるが、ゲームそのものは経過を指す。
そこが、人生こそゲームであると思える所以でもある。
もちろん、勝つ、という結果以外のためのゲームもありえない。
結果よりも経過が重要なのだが、経過は結果のためだけに純粋に存在しなければならない。
目的のために全力を出し尽くす、のが、ゲームプレーヤーとしての心がけである。
生きるというゲームのプレーヤーも全力をつくさないなら、勝ちも、負けも、経過も、すべての価値を失ってしまう。
結局のところ、勝ちや負けにこだわって、最初から全力を出せないでいれば、それは見ていても参加していても価値のないゲームだったということになる。
そんなゲームを自らプレーしてみたいと思うものも少ないだろう。
そこもまた、人生そのものだ。
勝ちを貪欲に意識しながら、ゲームそのものを最高に楽しみたいなら、負けと言われようが、とにかく全力を尽くす以外に道はない。
終ってしまえば、ゲームは記録以外の何も残してくれはしない。
記念碑も功績も名誉も、それはすべて記録にすぎない。
ゲームは次のゲームを生み出したりしない。
新たなゲーム中には、過去の名勝負など、もはや問題ではない。
そこがまた、人生そのものだと思うのだ。
人生のゲームで困るのは、その戦い方や勝ち方や場合によってはその試合相手すら何なのかがわからないことだ。
それは自分で決めるしかない。
もうグローブはつけて、リングに立っている。
わたしは学歴優先の社会というものを、問題はあるにしても、まっこうから否定する気はさらさらない。
学校にも会社にも『定員』というものがある。いい学校、いい会社には希望者が殺到するが、全部を受け入れていたらレシオが下がって本当にいい人材はとっとと逃げ出すだろう。
それは、教育や職業を選べるという人権が保障されているからこそ、そうなるのだ。
だからもし、学歴以外でも人を評価すれば、同じように足切りが行われるだろうし、そこに『努力』や『戦略』が介在しない例えば身長などで一律に採用を行えばより大きな社会問題になるだろう。
個人の資質や個性をあえて無視して『学歴』という一点で成り立つゲームだからこそ、対策は立てやすいのだ。そして、早くから対策を立てた者が優位に立ち、しかし、負け組がそのまま負けず奇跡の逆転もアリならば、立派なゲームだと言えるだろう。
つまり、学歴で得た知識など関係なく、学歴というゲームを戦う方法を見つけ、戦うことを恐れないものを企業は採用するだけなのだ。
仕事も、恋愛も、家族も、すべてはゲームだ。
どこに集中して、何を勝ち取るのか、プレーヤーが決めればいい。