価値ある女 価値ある恋愛

人は生命界で唯一、価値を創造する生き物だ。


しかし、価値とはなんだろうか?


恋愛は本当に価値あるものだろうか?


愛の大きさをプレゼントで測るのは不謹慎なことだろうか?


人は価値あることにこだわりつづけ、恋愛にはかえがたい価値があると言う。


が、その一方でプレゼントや言葉や態度で愛の価値を具体的に示すことを要求する。


恋愛に価値があることは知ってはいるが、その価値が人の大脳皮質のイオン電位差にすぎないことも十分に知っているからだ。


つまり、恋愛に価値はあるが、価値そのものにはたいした価値がないのだ。


愛は与えるものでも奪うものでもなく、新たな価値を創造し二人で分かちあうものだ。


それは真実だ。


しかし、その価値はしょせんイオン電位差にすぎないので、プレゼントや言葉や行為という価値の代替物を使い、それをわざわざ与え、わざわざ奪うのだ。


愛とは与えるものとか、奪うものという議論は、恋愛が価値を創造することに比べれば次元が低い議論なのだが、そのレベルでないとイオン電位差でしかない価値を実感できやしないのだ。


人は労働すると対価を得る。
30年前当時の給料よりも、現在の給料のほうが価値が高いのは明白だ。
金額もそうだが、それで手に入るものも違っている。
30年前は個人が所有できるコンピュータは存在していなかったし、ポケットに入る無線電話もSFでしかなかった。


われわれの社会は常に新しい価値を創造しつづけている。


人類社会がつねにインフレなのは、人類が常に新しい価値を創造しつづけているからなのだ。


しかし、新たに創造された価値を購入するためにわれわれは、働く時間を増やしつづけているわけではない。


例えば、米を30年間作りつづけているひとにとって、労働の質はそれほど変わってはいないが、おなじ米を作りつづけていても、やがてコンピュータや携帯を持てるようになる。なぜ、おなじことをしていて新しい価値が手に入るのだろうか?


それは、コンピュータや携帯など新たな価値を作った人々も米を必要としているので、新たな価値と米を作る価値は常につりあっているためだ。


あらたな価値が創造されると、米を生産する人の労働価値を同時に高めるのだ。米を生産する労働価値が高まるということは、米を生産する価値にさらなある価値が付加されたということであり、価値がそこに創造されたということである。


あらたな価値を新しいハンドバックに例えると、男がそれを購入するために働き、それを女性に与えるということは、昔ながらに米を作りつづけることの価値がつねに新たな価値にみあうのとおなじように、その女性の価値がつねに普遍的であることを男性が認め、それを必要としている証拠となる。


ハンドバックという新しい価値にその女性が見合うことが、プレゼントという行為によって証明され確定するのだ。


そしてまた、男にとって同じ仕事でも、愛する人にプレゼントをするため稼ぐ仕事は、風俗店で性欲を処理するために稼ぐ仕事より『価値がある』というわけだから、その価値は相手の女性によって創造されたものだと言ってもいいのだ。


このように、恋愛があらたな価値を創造する様子をプレゼントはリアルに語ることができる。


恋愛には価値がある。


愛は与えず奪わずとも、新たな価値を自ら生み出す。


それは確かに事実だが、恋愛が生み出す価値がしょせん大脳皮質のイオン電位差にすぎないことをありがたがるものが少ないのも無理のないことなのだ。