服装規定と個性

ある高校の非常に厳しい制服規定を知ることになった。


購入時の寸法まで証拠として保管し、一切の改造を禁止するとまである。


ここの学校の先生は『記号論』の勉強を多少でもしたのだろうか?
個性を尊重するたらという校風の学校で、これはどんな仕掛けなのだろうか?


もちろん、どれほど厳しくしても、もちろん服装規定は破られる。
その学校でも、明らかな規則違反はうろちょろしていた。


それは、なぜか?


服装規定が本校のまじめな生徒の『記号』ならば、服装規定を破ることも重要な『記号』だからだ。


「服装の乱れは、子供達の発する信号です」と生徒指導の先生は言う。


そのとおりである。


規定どおりの服装でアイデンティティを獲得できる子供は幸せである。
獲得できたと勘違いしているだけでも、である。


成績も、運動も、個人的な趣味でも、なにひとつ取り得を持たない子供にとって徹底的な大人への反抗もアイデンティティの一つなのである。
彼らは、もともと学校へ来るべきではなかったかもしれないし、どのみち、そこからはみ出していくべきなのかもしれない。


妥協のない反抗とはそういうものだ。


彼らにとっては、不幸なことに反抗することだけが唯一の取り得となったのだ。
それは、中学のころには自分にも想像できなかったことだろうし、結果としてそうなったことにたいした原因も責任もない。
たまたま、自分の選んだ場所で、自分というものが見出せなかっただけのことだ。


しかし、ひとつの結論として『反抗』を選択してしまったら、先生が手を焼こうが、親が泣こうが、唯一の取り得、自己同一化の方法なのだからしかたがない。


そして、もっともわかりやすくそんなアイデンティティを発揮できるのは服装である。


なぜなら、服装規定がもっとも厳しいからである。


学校の服装規定はそういう意味で、裏でも重要な記号となっている。


これを学校は理解しているのだろうか?


もちろん、理解した上で利用しているのだ。


服装規定を破る子供は、学校の用意したワナにまんまとハマっているだけなのだ。


自分の服装を個性の発露だと本気で思って、個性ともっとも対極にある逆記号への依存に陥っている子供は、やはりたあいのない『子供』なのだ。


オトナを圧倒する個性がそこにあるハズもない。


学校という『社会性』の場で『反社会主義』という個性は存在し得ない。
『差別のない社会』が『差別者』だけは徹底的に差別するのと同じである。


こういう子供に対して、教育機関が手を焼くことが間違っている。
さっさと放逐してやればいい。やかましいオートバイに乗って散々社会に迷惑をかけて死んでいくか、やがて自分が得られなかった自己同一化のなれの果てが、自分たちとさして変わらないオトナになるに過ぎないと理解した時、闘いが終わり妥協への道を歩くだろう。


面倒を見るのは教育の仕事ではなく、社会福祉の仕事である。なにも犯罪を犯すまで更正施設を温存する必要はない。そのずっと手前で、アイデンティティの獲得の場として、社会との接点をつくり直す場所としてオープンな更正施設はもっと充実していい。


少なくとも、わざわざ受験で入学規制をしている学校が彼らの面倒をみなければならないいわれはない。
そんなくらいなら場所を誤った子供を解放し、受験で落ちた子供を入学させた方が本来の目的にあっている。


学校の服装規定とはそういうことで、『反社会主義』の子供が退学になるのはしかたがないのだ。


そもそも『高校生らしい服装』という信号依存も、『ちょっとワル』という信号依存も、信号依存という体質の点では同じである。もっともらしく言うなら外見を重視するという基本的コンセンサスで行動する共犯グループである。
これは図式も簡単だし、責任もはっきりしている。


ところが、反骨して去っていった『バカ』のようなまねはしないが、勉強やスポーツや趣味で自己同一化に励み落ち着いて見えた子供がちょっと疲れることがある。
この疲れの原因が、バカバカしい服装規定やそれをとりまくオトナの無意味にしか見えない異常なハッスルぶりにある場合も多い。また、そんな状況で自分の疲れをゆとりをもって見てくれるオトナも期待できない。


そもそも、子供を疲れさせているのはオトナと相場は決まっているのである。


彼らは利口だから、わざわざオトナの仕掛けるワナを踏んだりしない。
服装がダメならイジメ、過拒食、リストカット、ネット依存、恋愛依存、SEX依存、薬物依存、どんな落とし穴にもすき放題にハマる。しかも反抗と違って『記号』を発する必要はないので、大人が気がつくようなヘマはしない。ほとんどが『あんなに真面目だったのにまさかうちの子が』という形で表出する。


しかも、オトナはその兆候として疲れてモチベーションが下がるのを見ると、成績ダケ、部活ダケ、趣味ダケ、で疲れがきている(あるいはちょっと飽きている)場所へ無理やり戻そうとする。「服装の乱れは、子供達の発する信号」なのだから、服装が乱れていなくて、遅刻もしない子供は『当校の生徒らしい』努力と研鑚ができると勝手に決めつけている。


そうやって、本人達が望んでいない場所へどんどんと追い込んでいく。


しかし、彼らは服装違反を自己同一化の手段とした一部のバカとはわけが違う。
彼らにとってこれは、反抗のようにアイデンティティでも、自分で選択したわけではないからだ。


本人にとってさえ、原因は結果となんの関係もない。


子供にモチベーションが失われてしまったのなら、無理して続けさせることはないし、だからといって即『反社会的』と決めつける必要はない。
ギリギリのところでそこそこの成績をとってしぶしぶ登校しているだけでも、受験に受かった以上は登校する権利はある。
そんなことをしていればこの時代に就職できないかもしれないが、それは先の事を考えすぎである。先のことを考えずに遊んでいるなら叱るべきだが、疲れの原因になってしまったら考えるのをやめることがまず必要になる。


生き生きしてみえた子供のモチベーションが見る見る下がると親は落胆するが、子供にとって『終った所』へ戻れというのは最も過酷なことになる。
終らないように最大限の手助けするのは必要だが、終ったことを理解できなければ最大限の手助けのつもりが、もっと悪いことになる。


オトナたちが、家族ダケ、仕事ダケ、趣味ダケで生きていけないのと同じである。


成績ダケ、部活ダケ、趣味ダケ、を強要して、さらに酷い所へ追い落としていくのは教育とも愛情とも言わない。


全員一緒に国政に従って大人しく製造業に従事していればいいという時代はとうに終わりをつげたのだ。


みなが同じ制服を着て、ラジオ体操する職場はどんどん中国へ移行してしまった。


それを把握できていないオトナがチャチな服装規定のワナで反社会主義者を炙り出すどころか、そのことだけに異常に興味を払った緊張の中で、疲れた子供を簡単に見過ごし、さらに追い込んでしまう。


『あそこが悪いここが悪い』『あいつが悪いこいつが悪い』とピヨピヨキャーキャー騒いでいるだけだ。
そしてこれを教育熱心などと本気で考えているのである。
事件が起こってから騒ぎ出す父兄も似たようなものである。


子供に服装規定の評判が悪いのは、誰の目から見てもピントがずれているからだ。ただしい問題解決になっていない。
というより、アプローチすらとれていない。
こんな連中に自分の悩みを打ち明けられるワケがない。


利口で疲れた子供もそんなことはとっくに気がついているのだ。


バカなオトナと、バカなオトナが仕掛けたワナにまんまとハマるバカな子供の共食い構造に、ちょっと疲れたというだけで追い落とされるように自分が巻き込まれ、逃げ道もなく追い込まれるときの無力感は想像にあまりある。
わたしだって、そんな場所にいるくらいなら保健室で寝るか、自宅に引きこもる。


わざわざ、復活の可能性を秘めた子供にトドメをさしているようなものなのだ。


この不景気に就職を目指して努力を続けていくのは、並大抵のことではない。
教師や親の焦りもあるだろう。
しかし、はっきり言えば、みなと同じことをしていれば間違いなく就職できる世の中ではないのだ。
現役の高校生はすでに何パーセントかはまともに就職できないことが決定しているのだ。


全員が同じだけ努力すれば、努力に報われないものが出てくるだけのことだ。


さんざん悪いことをやって学校を退学した子供も男は整備士、女は美容師で同世代のワル仲間にマーケットが存在していた団塊Jr世代とはわけが違う。


学校をまともに出ても、整備士も美容師も、就職できるとは限らないのだ。


だからといって、すべて悲観すべきでもあるまい。
フリーターという就労バッファは社会ニーズとしてこれからもどんどん増えてくる。
美容師が飽和していてもネイルアートもあれば睫毛カールもある。
真面目な生徒10人が面接に来ても、ハードディスクのバックアップからメモリの増設や新しいデバイスのセットアップ、これらを深夜にやってくれる遅刻常習者のほうがよほど欲しい人材なのだ。
ちょっとまえまで職業と言えなかったものが職業としてどんどん定着しつつある。
就職、社会保障という概念が根底から変わろうとしているだなのだ。
これが、個性化の時代のスモールマーケットそのものだ。
大量生産時代の次に来る個性化の時代とは、まさにこういうことなのだ。
やるべきこと、やれるべきことは山のようにある。


柔軟に型にはまらずに見守ること、小さなマーケットに信用と投資を集めることが今のオトナのやるべきことである。


みなと同じに努力をしない。


これがこれからの最も重要なコンセンサスとなるべきだろう。


明日は『ゆとりの時代』教育論について。根本的な誤解を正してみる。