もう後戻りできない2

後戻りできない度ランキングトップの社長という立場で、会社経営というのは、面白いです。
なぜって、それは自分の会社の欠点を直すと、ちゃんとマーケットは答えてくれるからです。
この不況と呼ばれる世の中で、マーケットそのものが年間10%近く縮小する中でも、シェアというものがちゃんと努力には答えてくれる。
だから、どれほど不況の業界でも、ちゃんとやれてれば売上は伸びてゆく。


会社はあの手この手で、というか、わたしのニューズレターなんぞも含まれつつ、商業的正しさでユーザーニーズに答えることに何の疑問ももたず、一直線にやるわけですから、素の心地よさなんて無縁です。そりゃそーでしょー。お客様から電話があって『なんだお前のとこはサービス悪いな』とでもいいたげな雰囲気をふんぷんとさせてても、一応対応はしっかりしなくちゃいけないものです。
『子供はおうちで遊んでなさい』と言って電話を切りたくなっても、しちゃいけないものです。


素のまんまで、それなりに評価され、そのまま生きる。
そんなことは許されないのです。
ということになっています。


でも、ほんとにそうか?





わたしがよく通過する、その場所は、(一応県庁所在市ながら)ひなびた店々がちょろちょろと連なる200mほどの商店街です。道から見える店の主人達はみなどう見ても年金受給者ばかり。場合によってはあごで使われている2代目が年金受給者だったりほどの。


とても車を降りて覗きたくなるような風情ではありません。
なぜこんな商店街が潰れないのか。今まで不思議でならなかったのです。
でも、見ると間口2間ほどのクリーニング屋では、おじいさんが木の柄のついた蒸気アイロンでくたくたの作業ズボンにプレスをかけている。
よく見ると、その店の前に置いてあるプランターは、数軒隣の花屋のプランターとそっくり。


その時、閃いたのですね。


ひょっとして、このクリーニング店でプレスされているのはあの花屋の作業着?
花屋は長年の得意先にクリーニングを出す?
つまり、ここの商店街は商店街の中だけで完結した経済連鎖いわゆるマーケットを形成している?


それで成り立つ?


まさか!


最初は取り合うつもりもなかった仮説ですが、それでも商店街が存続しているという事実は事実。


ひょっとして?


そうです。


よく考えたら、そもそも経済というのは完全に内部循環して完結しているものなのです。
だから、年金というわずかなインカム(これは農業の太陽の恵みと同じ役割)と、商店街の中だけのセグメント化された循環経済でも、成り立つのはある意味であたり前だったのです。


クリーニング店は戦後すぐに購入したかのような木の柄のついた真鍮のスチームアイロンを使いつづけ、花屋はほそぼそと数種類の花の苗を売る。
誰も携帯なんかもってやしないでしょうし、自動車はどれだけ安くなっても乗り潰すまで乗るのでしょう。
そういう生活であれば、成り立つのです。


わずかな経済循環とそれに見合った質素な生活なら。


そして、その商店街の誰かがふと
『年に一回は海外旅行に行きたいな』
と考えたところから、事態は変わってしまうのです。


その誰かが、余分の収入を得るために、生活圏外から集客してより多くのインカムを必要とし、そのために隣の商店街との『競争』がはじまるのです。
その主人はやがて、利益率を減らせば減らすほど、遠方から客が来て、売上は伸び、グロスの純利は増えるという単純な法則を見出すでしょう。


この世の中が平坦な商店街の集まりなら、もっとも利益率が低い店が同じ職種ではもっとも売り上げるでしょう。


実際は、消費者の消費動向や経済そのものはいろいろな環境の影響をモロに受けて、ダイナミックに変化します。そのダイナミズムに低い利益率が圧倒されて時に利益を消し飛ばしてしまったり、思わぬところで無駄を出してしまって、大きな赤字を生むことによって事態はいったり来たりしますが、長期的に見れば、可能な限りのコスト削減をして、可能な限り安く仕入れしている場合、利益がもっとも低い所が、もっともたくさん売り、結果としてグロスとしての利益をもっともあげるのです。


可能な限り利益を薄くすることが、結果としてより多くの売上をあげ、店舗あたりの純利益は増える。


これをあたりまえだと考えると、特定の商圏で必要最小限の売上を上げ、必要なだけの利益を得るという小さなマーケットモデルは理論上存在できなくなってしまいます。(それでも、わたしがその商店街を実際に目にしているのは、そのマーケットが完全に見捨てられ、セグメント化しているからでしょう。その商店街の中では価格差を無視して長年のつきあいが尊重されるからです)


つまり、マーケットは巨大になればなるほど、全体的に利益率のバッファリングを失って敏感なものになり、それに影響される経済のダイナミズムは常に大きく揺れ動き、その影響はどんどん拡大するのです。


ここには、とても少ない大きな勝者(しかも頻繁に入れ替わる)とたくさんの敗者の格差がさらに広がる図式しかありません。


世の中が進歩し、後進国が豊かになればなるほどマーケットは大きくなり、それによって世の中の死亡率は低下していきますが、その結果増えた人口で、餓死する人のグロス値(単純総数)はどんどん大きくなってゆきます。


孤立した小さな村の30%が餓死するのと、国全体で10%餓死するのでははるかに後者の方が死亡率は低いものの、グロスの死者数が比較にならないほど多くなるということです。


それは、現在のグローバリズム経済モデルと奇妙に一致している、のではなく、利益率は低下するが、利益のグロス値(純利益)がどんどん大きくなる経済のモデルが、そのまま世界のありようを決めてしまっていると見るべきです。


人が必要最小限のものを売り、そこから得た利益だけで生活すれば、商店街すべてが互いに孤立し、質素で増えもせず、減りもしないで、いつまでもずっとずっと続くはずです。


それは、共産主義が生んだ幻想なのか、自由経済主義が幻想にしてしまったのでしょうか。


ともあれ、われわれはすでに拡大経済を選択してしまったのです。


昨日の日記の、後に戻れない序列の筆頭はまさに、この世界モデルそのものです。


アフリカと中国、インドの貧困層がグローバル経済に完全に飲み込まれるまであと100年かかるでしょうか?
そして、それらが飲み込まれてしまったあとは?
利益率のバッファリングはどんどん低下し、人類が体験した事の無い大きな破局が来るのは当然予測されることです。


ともあれ、われわれの生活や人生観、あるいは恋愛のスタイルといったものまでが、後戻りできない経済モデルの影響を受けているのではないかと疑いつつ、明日に続くのでした。