○人の品性と努力と成果
気になる人と出会うと人は誰でも、相手にはつい意識過剰気味に接して、言動に注意し、上品に振舞おうとする。
やがて、徐々にお互いの気持ちを知り、相思相愛となったとき、その緊張はゆっくりと解けてくる。
しかし世の中には、人と接して、特に好きな人と接して、完全に緊張が抜けてしまう人と、そうではない人がいる。
そして、誰でも一度や二度は、ある日耳を疑う言動を大好きな相手がするのを聞くはめになる。
コレハダレ?
それは、相手が自分を愛して、心から信頼したがために漏れた、本性。
その言動が多少自分の判断と異なっていたり、あるいは、世間の常識と異なっていたり、時には品性を大きく下げるような場合でも、『人には誰しも人に言えない本音というものはある、だから、彼が(あるいは彼女が)こんな言動を自分にできるのは、相手が自分を愛してくれているからだし、心から信頼し安心しきっているからなのだ』、と、最初はかえってそれを嬉しく思うことさえある。
ただし、それは、つきあいはじめる前の緊張が残っているはじめのころだけ。
やがて、相手の本性剥き出しの言動に、幻想はゆっくりとしかし確実に消えていく。
確かに、相手は自分を愛していて、そして、安心しきって本性を表したのかもしれないが、たとえどんなに相手が自分を愛していても、もはやその愛に価値が見出せないほどに、相手の本性は幼稚で、我侭。
そうして、愛想をつかし、別れ、本当に信頼でき、安心して対等に愛せる大人の異性を再び求めてゆく。
その旅に果たして終わりはあるだろうか?
やがては、自分と同じように、どれだけ好きな相手にも本性を見せない立派な態度を取れる大人と巡り合うか、あるいは、本性そのものが純白で汚れない天使と巡りあえるかも知れない。
そう信じながら、この旅を続けるのだろうか?
しかし、ここで立場を変えて、付き合っている相手が、自分にそんなことを期待しているとわかったら、一生答えていける自信は、自分にあるだろうか?
自分なら大丈夫、と思っている人ほど、客観的に見て欠点が多かったりするのも事実なのだ。だから、決して安心してはいけない。相手が立派すぎれば、自分の欠点がよけいに気になる。いっそ、思い切ってさらけ出して、『あるがままの自分を認めて欲しい、そして、愛して欲しい』。。。。。
おいおい、あのね。である。
それじゃ、愛想をつかした相手と同じじゃないか。である。
また、あるとき自分が人間性の程度の低さに愛想を尽かし、逃げ出すように分かれた相手が、しばらくたったのち分別のある理想の恋人として評価されているのを目の当たりにすることもある。
果たして、自分は正しかったのか、間違っていたのか。
間違っていたとしたら、どんな判断が間違っていたのだろうか?
確かにあの人は、別れたとき、十分我侭で、子供で、下品だったのに。
恋人同士には、共に高めあう関係と、共に落ちていく関係しかないのだ。
あなたがもし、『あるがままの自分を認めて欲しい、そして、愛して欲しい』と思うタイプなら、相手も許すしかないのだ、そして、自分がそうであるように、相手も、あるがままを認めれば認めるほど、どんどん、共に下劣に落ちていく。
それを止めようとすると、再びジレンマに陥るだろう。
もはや後戻りはできないのだ。
共に、仲良くゆっくりと、品性の階段を下りていくしかないのだ。
二人の子供は、適度に下劣で、適度に要領のいい子供に育つだろうし、中年を超えたころには、新聞の3面記事にでていたような事件は、こんな家庭から生まれてくるのだということを、身をもって体験することもできるかも知れない。
愛する人が(あるいはかつて愛した人が)『クソ野郎、金稼げ』とか『クソアマ、さっさとメシよこせ』と罵るのを「まるでドラマの悪者の言うセリフだな」などと客観的に見つめることもできるかも知れない。
子供のころにフィクションだと思っていたあの下品な世界が目の前に実在する、そのワクワク感もいいかも知れない。
こういうタイプにあまり運は関係ないかも知れないのだ。
それはそれで、過度に期待を裏切らない人生だから。
いろんな人に、いろんな人生の『落としどころ』というものはあり、運がよければ、自分にふさわしい終末を迎えることができるだろう。
自分には不釣合いな相手でも、相手に追いつこうと努力するなら、相手も同じように、努力を続けていくこともある。
そして、人もうらやむような家庭を築くかも知れない。
ところが、そんな家庭こそ、運に翻弄されることも少なくない。
なぜなら、
自分の身近な人と人は、互いの努力を認め合うことができるが、この世の中には、人の努力を踏みにじってなんとも思わない、互いに低めあうことで成り立つ人間関係も多くあるのだ。だから、
全体としては、努力に答えてくれることが約束されているとは言いがたい世の中なのだ。
努力しない人間が、過度に期待を裏切られる事も無い一生を送るとしたら、努力する人間の期待は、だいたいが裏切られることが多い、ということになる。
もちろん、例外もあるが、それは例外だからこそ、人がうらやむのだ。
そして大抵は、品性を上げる努力を適当に途中放棄し、自分の仕事のスキルだけをあげようとしたり、収入だけを上げようとするように変化する。
実際、そういう家庭が多いのは、そういう事情が大きく影響しているようだ。
努力に対して過剰に期待をする人の方が、ある意味我侭で、品性下劣なのかも知れない。だからこそ、大きく裏切られてしまうのだ。
そして、そんな人にもいい按配に、いいところに人生の落としどころというのはある。
品性を上げようと努力しないものは、しないなりの人生しかないし、努力したものも適度に裏切られるのが人生。
人生なんて、そんなもの。
しかし、それしかないのだろうか?
片方が品性を下げつづけ、片方がそうでない場合、あるいは、その逆の組み合わせでも、カップルとして長く続くとは思えない。
長くつづけば、どちらかがずっと幻滅しながら、ということになるだろう。
ある意味で、それは最大の不幸、現世に出現した地獄かもしれない。
では、極上の人生をつかみとれる者とはなんだろう。
それは、努力と成果に捕らわれない人生、つねに好奇心で目標に向かって進む人たちだ。
そんな人たちは結果を求めて努力するのでないから、人や運命に裏切られたことに気づきもしない。
不運も、不幸も、悪意も、欲をもつ人を打ちのめすことはできるが、好奇心で前進する人の、好奇心を失わせることはなかなかできないものなのだ。
彼らにとって人生は、まさに、丁寧に包装されたチョコレートの箱なのだ。
いくら言葉が下品で、態度が我侭でも、人としてむかつくやつでも、多くの場合、そういう人の品性は良くもならないし、悪くもならない。そんなことが関心の対象にないからだ。
そういう人間に勝てるものはそういやしない。
そういう人間の超然とした態度を、常識や品性で語れるものでもない。
勝負の対象がそもそも違うので、相手はこちらのことなど知ったこっちゃないのだ。
そんな相手と恋愛をすれば、自分の進む先に好奇心がないものは、見捨てられ置いていかれるような気がするだけだ。
そもそも、愛情を必要としているかどうかも時として疑わしい相手である。
もし、自分の品性が十分に下劣で、人生に成果を求めるなら、そんな相手になにかを期待して近づいても、あまりいいことはないかも知れない。