悲劇を呼ぶちから
わたしは一生懸命生きることが好きだ。
そして、一生懸命生きる人も好きだ。
前向きに、常に前進する力こそ愛の糧でもあろう。
それを信じて疑ったことは無い。
しかし
例えば、そんな努力にも関わらず、抗しようのない大きな力で悲劇にひきづり込まれることもある。
そう、それだからこそ、人はそれを悲劇と言うのだ。
しかも
最善を尽くすしかない場面で、まさに最善を尽くして、敗れることも悲劇ではあるが、多くの場合、そして人がまさに悲劇と呼ぶ場合、最善を尽くそうとしてその誠実さゆえに悲劇に落ち、敗れることも多い。
わたしは、いわゆる悲劇と呼ばれる作品を読んだり見たりしたとき、その構造がより強固なものを美しい悲劇だと思う。
そんなわけで、いわゆる悲劇と呼ばれる作品を読んだり見たりしたとき、すべての登場人物が、良心と良識に従って、その立場で考え得る最善の行動をしているかどうかを見る。
つまらない悲劇は、作者がただ人の情感を刺激するように登場人物をいじっているにすぎないことが多い。
作品として成り立つ悲劇には、登場人物を配置しただけで決定してしまう強固な構造がある。
そう、良心と良識と、最善の行動がある特定の構造で相互に作用する時、それは個人の努力を無にして、抗しようのない大きな力となって生け贄を丸呑みにしてしまうのだ。
いわゆる、悲劇、というニュース。
いわゆる、わたしたちを打ちのめす、不幸の知らせ。
そんな場面に直面しても、時にわたしはその構造がどうなっているかが気にかかる。
だれか、良心と良識を裏切っているものはいないか?
最善の方法をとっていないものはいないか?
そして、それが見つからないとき思うのだ。
最善の方法をとらないとしたら、どうなるか?