◎これってネタなの?

2chという巨大BBSサイトを見ると、盛んにこんなセリフを目にする。


主に『○○といいいます。都内の女子高生です。ここは友達に教えられて来ました』というような無防備で素人臭い書き込みに対するレスで『ネタかよ?』だの『ネタに決まってる』『だからネタだって』『マジレスするなウゼェ!』だのというレスが列をなしていく。ネタとは、軽い嘘を楽しむための発言というような意味である。ネタそのものはさして罪ではないようだ。


問題は、それをどう扱うかということである。


が、世の中はよくしたもので、『マジレススマソ』などと一応周囲に断りを入れつつ、その発言の主に親切に対応するものも出てくる。


2chは実際にネタが多いので、参加者はネタに対して猜疑心が強く、信じることに臆病であり、引っ掛かったことに過度にメンタリティを傷つけられたりする。


賢者を装うコテハンは、ネタには慎重に対処し、書き逃げができる名無したちはネタと知りつつ『○○タン萌え〜』などと一時の妄想にふける。


実際、ネタと認定されたスレにレスをするにはそれなりの自己防御が必要だし、騙されたことが判明したとき、『もしホントだったらいいな』という哀れこの上ない夢を打ち砕いて100倍の空しさと悔しさを味わわされることになるようである。ヘタを打つと当分立ち直れないかも知れない。


でも、もしもその○○タンが実在し、ほんとに女子高生だったら?


そんな淡い夢と希望はなかなか捨てきれないらしい。実際には、スダレ中年オヤジの方がなんぼか可愛いと思える女子高生も多いのだが、女子高生と聞いただけでそこまで想像できなければ気の毒だが致し方ない。


しかし、『大漁♪大漁♪ご苦労さん』と最後に本人からネタバラシのカミングアウトがあったとしても、マジレスを返してもどうということはないのだ。


逆にわたしが本物の女子高生だったとしても、ホントを微妙に織り交ぜたスレの最後には『実は都内在住35歳のオタリーマンですた。ぐっばい』と書くかも知れない。いや、きっと書くと思う。なぜなら、そのまま存在しつづけて正体が本物とバレた時の方が、遥かに怖いからだ。


結局事実かどうかわからないことは、事実がわかるまでは基本的に不問である。


だからネタがバレるまでは、別にネタだろうとマジレスしても構わない、とわたしは思うのだ。


もちろん、質問に親切に答えた、ただそれだけの事象なのか、はぁはぁな妄想の下心があったのかは、答えた当人以外に誰の知る由もないことである。だからそれも、事実かどうかわからないことは、事実がわかるまでは基本的に不問である。


むしろ、最初から疑ってかかった自称賢者が勝ち誇ったように『ほらな?』と煽ったとしても、『最初から疑ってかかった』という彼の半生を如実に示す悲しさよりも、ネタに引っかかったメンタリティの傷の方が、実はずっと小さく健全だ。


ではなぜ事実確定しない欺瞞が不問なのか?


自称女子高生を名乗ることが欺瞞であるかどうか、それは利害を考えれば『女子高生だった方がいい』ので、明らかに欺瞞でない限り欺瞞かどうかは実は不問である。
『ああ、それだったら××ですね。わからなかったらまた質問してください』と返事をした自分のレスが『なにも知らない女子高生と友達になれるかも、はぁはぁでは決してなく、ただ質問に丁寧に返事をしただけ』という欺瞞でも、これは『ただ返事をしただけ』の方が自分の利害と一致するので、やはり欺瞞であっても不問なのである。


賢者よそんなことはあたりまえのことなのだよ。


その証拠にリアルな世界を見てみよう。


もちろん、長髪で小太りメガネのオタク野郎が道端で『△△女子高の○○タンです。ちょっと遊んでくだちい』などと逆ナンを仕掛けては来ない。来たらそれこそネタとして最高であろう。


だからといって、ネットのような欺瞞が存在しないわけではないのだ。


いや、実際は欺瞞こそこの世の仕組みの重要な部分なのだ。


ほとんどの男はカラダ目的で女性に近づくが『ぼくはセックスがしたいわけじゃない。ゆみと愛し合いたい。だからゆみが嫌だったら気持ちの準備ができた時でいいよ?』とほざくし、ゆみはゆみで(ゆみって誰よ?)『かーくん気持ちいいよぉ』などとほざく。両方嘘の確率は低いかも知れないが、どちらかが嘘の確率は80%だと断言してもいい。


だがしかし、その欺瞞は両者の利害と一致している限り不問なのだ。


うすうす嘘かもと知っていても、自分にも自分の都合があるので、欺瞞であるが欺瞞のままそれを不問とした方がよいとき、欺瞞であることは実はたいした問題ではなくなるのだ。


そこに2chの賢者が登場し『これってネタなの?』といちいち突っ込みを入れたらどうだろうか?


少なくともその賢者が、社会に適応できないことは間違いない。
気の毒だが、2chで賢者をやることが生まれた唯一の理由だと覚悟してそれに専念し一生をそれに捧げた方が良い。


この世の中は結婚も愛も性生活も、すべて欺瞞で満たされているのだ。


残念ながら、夢見る賢者が生息する2chほど現実の世界はキレイでも美しくもないのだ。


ミニスカートの女の子は『わたしは準備オッケー』という信号を振りまくが、真に受けて触りに行けば即逮捕なのだ。誰もがその信号が欺瞞だと気がついていて、それでいて無視したりもしない。ミニスカートの本人も、自分の発する信号が周囲に欺瞞だと思われているのを『知っているから』安心してより過激なファッションを楽しむことができるのだ。欺瞞が両者にとって利害が一致しているのだ。


哀れな2ch賢者には理解しがたいことかも知れないが、人は欺瞞を楽しみや自己の利害調停の道具として利用し、そして必要としているのだ。


したがって、『○○といいいます。都内の女子高生です。ここは友達に教えられて来ました』も『ああ、それだったら××ですね。わからなかったらまた質問してください』も、それが欺瞞であるかどうかは不問なのだ。


もちろんリアルな世界でも『ゆみを一生大切にします』(飽きない限り)でも、『わたしにはかーくんが一番かっこいい』(イケメンに言い寄られない限り)でも、それが欺瞞であるかどうかは不問なのだ。


人があえて欺瞞を暴くのは真実が自己の重大な利害となるときだけである。
だがしかし、欺瞞を暴くという自己の利害がたいていはその本人が社会に受け入れられない原因だったりする。なぜなら、そこまで重大な自己の利害などふつうは存在しないからだ。


それはかなり強欲だと言わざるを得ない。


欺瞞はふつう自分と相手の満足ために与えられるものだからだ。


当事者の利害が一致しない欺瞞は、欺瞞として成立しないのだ。


大切なのは、相手の欺瞞を不問とし、自分の欺瞞を自己の利害と調停し、そして、欺瞞を利用して楽しむこと。