人は安定を欲し・・・背徳を嗜好する

こんな実験がある。
どこで聞いた話かわからなかったので、グーグルで調べたが同じような話は見つからなかった。


マウスのゲージをパイプのトンネルで3つ一直線に連結する。


ここに、数匹のオスと、数匹のメスを入れる。


両側のゲージにはそれぞれ強いオスがテリトリーを築く。


両側のゲージには出入り口が一箇所しかないので、強いオスは他のオスを入れないようにそこを守ることで縄張りを主張できるのだ。しかし、中央のゲージは通路が2つあって守りきれないので、そこに両側から追い出された弱いオスがすべて集まり過密状態となる。


メスは基本的に出入り自由なので、最初は中央の混乱から逃れて両側のオスのゲージでハーレムを作る。


やがて、中央の弱いオスばかりのゲージでは日常的な喧嘩や共食い、オスのホモ化などが観察される。まさに阿鼻叫喚の縮図がそこに展開されるのだ。


そして、両側は強いオスが平和を守りつづける。


ところが、両側に安定した平和が存在すると言うのに、メスは中央の無秩序なゲージへ惹かれ、やがて誘惑に負けて移動していってしまう。


それはなぜか?


メスが平和に退屈するのである。


人も平和を望みながら、しかし、どこかに無秩序と混乱があるとそこへ強く惹かれる。なぜ、自分にそんな面があるのか、特に思春期で純情な時期にその事実に大きく動揺したりする。


しかし、知性で行動すればそれはなんらか説明もできようが、マウスでさえそうだとなるともはや理屈ではあるまい。


そういうサガだとしかいいようがない。


野生動物は、仲間が殺されるところを間近で見ようと猛獣に近寄るような行動をしばしば見せる。それは好奇心の中でも相当に強いものらしい。
マウス以上程度の、ささやかな知性と好奇心を持った動物は、自らが事故から身を守るために学習するかのごとく、同属の悲劇から目をそらせないようである。


これはもちろん人類にも顕著で、毎日数十人が死亡する交通事故よりも、たった一人あるいは一家族が、ごく稀な残虐性の犠牲になり、無残に惨殺される事件に異常な注意を向ける。


隠しようもない事実だが、人はこういう話が好きで好きでしかたがないのだ。


このように、人は本来、苦痛や吐き気を催すようなあらゆる刺激に対して、忌諱すると同時に必ず嗜好する感性を持っている。


思えば、これは不思議である。


しかし、本能的に忌諱したものから一歩も近づけなければ、医学はもちろんありとあらゆる学問や軍術や政治は、これほどの成功を収めることもできなかっただろう。


例えば、インターネットや同人の世界では、人の感性の極限から極限まで、ありとあらゆる背徳的な嗜好が存在し、手近にカタログ化されてしまっている。そして今や子供たちが、いつでもそれを見ることができる。


人は誰しも、ありとあらゆる背徳嗜好の原型を持っている。


それがあたりまえであり、あらゆる良妻と賢母にもありとあらゆる背徳の資質が内在している。
しかし、道徳しか学んでいない子供が、こうした嗜好の極限を垣間見て、そして自分の中にその資質を見たときに、ひどくショックを覚え、そして惹かれていく。
しかも、インターネットではコアな趣味でも友達が作れ、また趣味を媒介にするので、その関係は非常に密になりやすい。
逆に、友達の存在が自分の中のコアな趣味をロックインして固定してしまう役割を持つ。その趣味から離れると、友達を失ってしまうからだ。
友情や集団への依存から、より刺激の強い趣味へと進むことも簡単だ。


こうして、不確定でニュートラルな子供が、ごくごく些細なきっかけからどんどんとコアな嗜好にロックインしていってしまう。


われわれの世代は、このような状況を想定した教育を受けて来ていないので、そんな子供たちをどう扱っていいのか、何をアドバイスすればいいのか、皆目見当もつかない。


結局のところ彼らに教師はおらず、自分たちで考え、自分たちで進むしかない。


幸いなことに、子供の心は案外に強靭で、なんでもありのまま吸収する力がある。


きっと彼らは、背徳的嗜好に満遍なく触り、匂いを嗅ぎ、時には耽溺し、そしてそれすらやがては糧にしてしまうだろう。


実は言葉を持つ以前から、人はありとあらゆる背徳を行うすべを知っていたが、だからといって決して滅んでしまうことはなかった。


考えてみれば、その方がよほど不思議なのだ。


実際、個人の行う背徳は、社会が行う背徳に比べればまだまだ児戯に等しいのだ。


もしかしたら、社会が巨大な力を持てば持つほど、個人は背徳を学び、それを制御する知性をそこから得る必要があるのかも知れない。キリストの十字軍やナチスドイツ、旧日本帝国軍など、歴史的なホロコーストは得てして禁欲的な社会から生み出されることが多かった。