○人はみなシュレディンガーの猫である
『シュレディンガーの猫』という有名な理論物理学の思考実験がある。
電子以下のレベルの微粒子は、重ね合わせた時間の推移の中でしか解の出ない方程式にしたがって未来を予測される。自動車で例えるなら、出発時間と到着時間までの間、途中の道すべてにまんべんなくその車が存在するのだ。
原子の周りをくるくる回る電子の絵を誰でも思い浮かべる事ができるが、正確には、あの軌道の近くをあんな感じで存在している確率が高い、というだけである。
これは実体を持った素粒子を実体のない波動とみなさなければ方程式として成立しない数学的な矛盾が原因である。
実際に見たりさわったりできない以上、電子は実体があるともないともいえないのだ。
これが物理の不確定原理である。
われわれは、実体を認識できる存在としての世界観しか持っていなかったが、世の中は実はそうではなかったのである。
そこでノイマンは、観測者がそれを見たとき、はじめて実体として存在すると唱えた。
問題の発端となった素粒子の波動方程式をもたらしたシュレディンガーは、『それなら不確定な粒子の崩壊を検知して毒ガスを放出する箱の中の猫は、フタをあけるまで半分生きて半分死んだ状態で存在するのか』と、その観察者に依存した世界観に反論した。
実際に猫が半分生きて半分死んでいる状態などあるはずもなく、猫は常にどちらかである。少なくとも、猫だけは自分がどうなったかを知っている。
そもそも、粒子も猫も、誰かがそれを気にとめなければ、その存在について語るものもいず、方程式もそれが世界を定めていようと誰も使わず、猫の生き死に以前に猫の存在そのものにすら意味がなくなる。
観察者がいない宇宙では、その宇宙の神秘的な方程式にだれも気づかない。
また、誰かが宇宙の方程式の存在に気がついたとしても、そこに感動がなければその神秘の方程式の存在はなんの意味もなさない。
人は自分という唯一の主体であると同時に、自分の人生の唯一の観察者でもある。
自分の人生のすべてを知るのは自分ひとりだし、ほかに誰も主体としてそれを知覚できないのだ。
人は誰しも箱の中のシュレディンガーの猫そのものである。
ただ生きている間だけ、箱のそとがどうであろうと、箱の中でただ自分ひとり、意識でその存在を知り、感動でその唯一の価値を決めているのだ。