○そもそもの間違い

だれにでも悩みというものはある。


そして、時にはそれが未来の光を遮り生きる気力を奪ってしまうこともままある。


しかし、そもそもわれわれは現実を正しく把握する能力などあるだろうか?


恋人とこってりクドクドと話をしてみると、自分の無意味な言葉が相手に大きく影響を与えてしまっていたことがわかったりすることがよくある。


その逆で、『たしかにこうだった』と理解していたつもりのことが、クイズ番組の問題なんかで出たときに得意満面で答え、そして大間違いであることもよくある。


われわれの現実感などというものは、いかにも危ういものである。


現実の捉え方が主観的であるのに加え、記憶が想像と区別がつかない脳の構造をしているからである。


だからこそ、すべての事象に現実感を失い、現実に対処できなくなる精神的な病はいくらでもあるし、それとふつうの人との違いは『程度の差』でしかなくあいまいなのだ。
だからそんな病は物理的な脳の構造に問題が無くても、トラウマなどの大きな傷が心になくても、突然発生して人々を混乱させる。


現実感という言葉のとおり、それは一種の感覚でしかなく、しかもそれは物理的なものでも、論理的なものでもなく、あくまで感覚的なものにすぎないのだ。


いってみれば、現実感とは常に状態遷移している脳味噌の現在の状態でしかない。


だから、ある人にとっては単なる懸案事項が、ある人にとっては大きな悩みとなりうる。それは、それぞれの問題に対する捉え方が違うからであり、その原因はそもそも人は現実感という非常にあいまいなものの捉え方からすべての思考をスタートさせているからに他ならない。


子供を殺してその生首を学校の門に置いてくることに意味を感じる現実感もあれば、ちょっとした仕事に足がすくむほどの責任を感じて萎縮してしまう現実感もある。


いわば間違ったフィールドに間違ったデータを入力し、間違ったプロセスで処理しているようなもので、答えの間違いの原因がどこにあるのかわからない。


そもそも、なにが間違いかなどという命題すら、実は存在しえない場所でわれわれはやむを得ず思考しているのだ。


だが、そもそも、危うい現実感の中で捉えた危うい問題には、実はたいした問題などない。


あえて言うなら、ヒマな脳味噌がひねり出した仮想現実にすぎない。


だから、ひどく悩む前にそもそも自分が捕らえている現実感に疑問を呈し、最初から論理的に現実を構築しなおせば問題そのものが消えるかもしれない。


と、思うのもまた早計である。


というのも、そもそも現実というのは、このような危うい現実感を持った自分以外の人間が多くそれに関わっているからだ。
そこで、自分だけが論理的に思考しても現実にそぐわない結論にしか到達しないことがままあるのである。


まわりが仮想現実でものを見ているのに自分だけ論理的に思考することはない。


わたしの友人がかつて『利害調停』という言葉をよく使った。


本当の問題にはつねに誰かと誰かの利害が衝突していて、問題解決とはそれを両方が納得できる結論へ調停する作業であると、彼は捉えていたのだろう。


論理的思考ではなく、利害調停なのだ。


しかし、ほとんどの人にとってそれはそれほど簡単なことでもないようだ。


そして、自分の現実感という問題解決の座標に多少でも疑問をもった人がまず最初に行うのは、人にアドバイスを求めること、だったりする。


ところが、たいていはアドバイスを求められた側は、アドバイスを求めた側の損害を査定してもっとも害の少ない答えをアドバイスする。


そこそこの立場の人がなにかをやらかそうとする時には、たいていやめとけとアドバイスするし、恋人に不満を持ったひとには別れとけとアドバイスする。


実際にチャレンジしてみて丁か半かと結論が出ることに取り組むよりも、問題そのものから遠ざかるようなアドバイスしかしないものだ。


それは客観的に正しいかどうかではなく、やって失敗したとき、自分が罪悪感を感じたくないからである。


というわけで人のアドバイスはあまりアテにならない。


そうなると、占いだご宣託だのに頼らざるをえなくなる。


なぜ、人は宇宙旅行を達成しながら、このようなアテにもなりそうもないものに頼るのか?ついでに考えてみよう。


それは、現実感の危うさと占いやご宣託の根拠のなさがとても似ているからだ。


人の脳は相似(パターン)から類型を想起するようにできていて、これをAIでは『連想想起』(パターン認識)と呼ぶ。これが優れた問題解決法かどうかは置いておいて、人の脳味噌の思考方法がコレであるので、人とよく似た判断を下す電子頭脳を作ろうと思えばモデリングしなければならないので、いろいろと研究されている。


なにしろ、何かと似ているというだけで人は印象を決定するし、ともするとそこで判断をくだしてしまうことさえする恐ろしい生き物なのだ。


そしてこれが、危うくとりとめのない占いに問題の解決を求めるゆえんとなるのである。論理的根拠がなくつかみどころがないからこそ、自分の根拠のない現実感とそれはマッチするのだ。