死ぬときはさっさと死ぬ

わたしが嫌いなものに、WEB閉鎖のお知らせとか、日記終了のお知らせとか、なんだか終焉をわざわざ告知する類のものがある。


会社はまぁ、更生法とか、破産手続きとか、解散とか、これは経営者としての最後の勤めなのでやって当然と思う。
あるいは、あるフリーソフトの作者がサポートページを閉鎖するというのは、いろいろ事情もあるだろうし、責任上一言詫びたいという気持ちもあるだろう。


個人のHPでそれほどの必要があるだろうか?


せっかく常連になってくれて、友達になってくれて、云々というなら閉鎖しなさんなよ、というか、どうせ本心の友達にはメアド教えたりして交際は続けるものだろう。


そういう継続したつきあいのない常連はつまり、捨てる人間関係なのだから、わざわざ『あんたとはもう会いません』と絶縁を宣言したりしないものだ。


だいたい、WEB閉鎖のお知らせとか、日記終了のお知らせとかには、クドクドと閉鎖の理由などが書いてある。ほとんどが、イタチの最後っ屁みたいなもので、読まされてげんなりすることしか書いてない。


死ぬとき、『かっこよく惜しまれて死にたい』と想像する人間は生きたかいがなかったんだろうなぁくらいの感慨しかもたれやしない。少なくともわたしはそうだ。自分のみじめで退屈な人生をバラ色に変える手段として結婚を夢想するコムスメと同じだ。そんな考えの人間がそんなことで人生が変わるか、ボケ。


生き物としてがむしゃらに生にしがみつき、みっともなくジタバタしたあげく、死ぬことなど想像もしないまま、死ぬときはさっさと死ぬ。


ほかに死にようがあるだろうか。


HPの閉鎖なんぞというものも同じで、久し振りに来てみたらリンク切れ。
それでいいじゃないか。


惜しまれたいと思う人間ほど、思うほどは惜しまれたりしないものだ。