フェアトレード

フェアトレードという言葉を最近よく耳にする。


例えば、コーヒー豆などを過剰な競争原理に基づく価格で取引すると、劣悪な環境で重労働を強いることのできる後進国の極悪な経営者が一人勝ちしてしまう。しかも、その会社の豆をいくら購入しても生産現場では常に劣悪な環境で労働者を働かせ、賃金は行き渡らず、その国の生活もモラルも向上しない。
そこで、そういった環境を改善すると約束した経営者の豆が多少高くてもそれを購入することで悪循環の芽を断ち切ろう、それが「先に富を得てしまった国々の義務である」という運動である。


労働に見合った価格で取引しよう。


自分なら我慢できない賃金を相手に強いることを止めよう。
これがつまり、フェアトレードである。


その裏にはコロンビアで麻薬生産をやめさせ、農民にコーヒー豆を作らせようという運動でもある。


先日、ある法的手続きの件で役所と揉めた。


そして例によってそのお役所仕事的な手続きのおかげで、当社は予定の営業活動を手続きの終わりまで待たねばならず、結果として約200万円の損害を被った。
失ったビジネスチャンスは2度と取り返すことができない。
なぜ、役所よりも業界団体の方が業界に対してより面倒なことを強いるのか、なぜ役所は最終的にそれを支持するのか、会員の会費で成り立つ業界団体がなぜ会員に損害を与えることを平然とするのか?
役人が天下りした業界団体が本来の目的である業界の保護を簡単に放棄してしまうのはなぜなのか?
なぜやつらには金銭感覚というものがないのか?
今度こそ、まともな政党に一票いれるぞ。


おかげで小市民的な感傷を久々に心から味わうことができたのだ。


日本の構造改革が進まないのはどうしてか?


そう考えているとき、突然フェアトレードというキーワードを思い出した。


例えば、日本の官僚は相変わらず公共工事で金をばら撒くことをやめようとしない。
作られないはずの高速道路も結局作られるとか。


官僚の金銭感覚とは、こういうことだ。
「税金や国債で集めた金は消えてしまうわけではなく、それは日本の経済の中に流れていく。しょせん出口が違うだけで、出口の良し悪しは単なる個人の利害の衝突に過ぎない」


確かに経済学的に見れば、税金や国債で集めた金が日本経済という帳簿から消えてしまうわけではない。


通貨の価値を観点にそれを見れば、それが高すぎる高速道路や無用な公共施設の建設資材になったところで、やがてそこからさらに流通して流れていく。
それが過剰にゆきわたって通貨の価値を貶めることになれば、円の貨幣価値が下落するはずである。
つまり、円が通貨マーケットで価値を落とさないということは、円の使い方や流通のさせ方が必ずしも間違っていない証拠でもある、ということもできるだろう。


ならば、なぜそれがいけないのか。


なぜ、われわれは本能的にそういった金の流れ方に違和感を持つのか?


それは、そういった金の流れ方がフェアでないからだ。


円は単なる通貨ではなく、われわれの労働対価でもあるのだ。


われわれの労力とそれに対する賃金と比べて、税金や国債で集めた金の使われ方はあまりに安易に利益を生んでしまう。


高すぎる高速道路や無用な公共施設に支払われる100円とわれわれが受け取る100円にはかかる労力と責任とを比較してみると、それは明らかに等価とは言えない。


構造改革とはつまり、政府に「フェアトレード」を求めることなのだ。


われわれが一時間働いて得た賃金で支払った税金は、同じ価値でありつづけなければならないのに、それがゆがんだ取引によって不当に貶められ、われわれの労働価値に見合わないような高速道路や公共施設になって返ってくる。
それを製造して利権の恩恵に浴する者が、わずかな労力で肥え太ってゆくことが許せないのだ。


国家予算の使い方、天下り先で受け取る賃金、政治家が一票と等価と認める価格、それらすべてがわれわれの労働対価と比べてあまりにも「アンフェア」だからわれわれは常に違和感を持つのだ。
日本の帳簿からいとも簡単に消えてしまうのは、(あるいは最初から記載さえされないのは)われわれの労働対価なのだ。


だから役人や政治家に言いたい。


それは単に出口の違いなどではない。
税金が福祉事業や教育費へ遣われるならいいというものではないのだ。
どんな場所へ金が流れようと同じなのだ。


労働に見合った価格で取引しよう。


という単純なことなのだ。