○生産的せいかつ

自慢にもならないが、20代の一時期TV業界で生活していた。
といっても、地方の局の独自製作番組の予算が数十万円だった時代だ。


あるとき、たった一人で編集してカンパケにして納品してオンエアされた番組に編集ミスがあった。
スポンサーはおろか、納品先の局内ですら試写は行われなかったので、そのミスはそのまま放送された。


オンエアを自宅で見ていたわたしは、青ざめ、上司の出勤前に局へ赴き、編成局長を直接捕まえて詫びた。
一番偉い人に先に怒られとけば、「しもじものこっぱが怒る筋合いはない」と理解していたからだ。
逆にいえば、心底その失敗に対して責任を感じたし、そのために上司が責められないために必死の蛮勇で行動したのだ。


ところが、そのオンエアさえ局では誰も見ていず、もちろん編成局長もそんなミスは知らなかった。


もちろん、直属の上司すらそれを見ていなかったし、なんとスポンサーさえも見ていなかったのだ。視聴者からのクレームもなかった。


偉そうに現場でキューを出し、徹夜で編集し、必死でなにかを「創っていた」つもりだったわたしは、ミス以上にそのことに打ちのめされた。


つくづく、自分の仕事や自分の仕事で得たお金に対する価値というものを考えさせられた事件であった。


「おれってさー、TVで仕事やってんだよね」


今まで自慢げとも思わなかったこんなせりふが、死ぬほど恥ずかしく思えるようになって、結局それからしばらくして仕事をやめた。
もうそのころには、企画の段階から参加したりしても、TV局で自分が「創りたい」と思うものが思ったとおりに創れるワケがないことも気がついていた。


しかし、その後の仕事でもわたしはいつも「金」や「情報」を流通させているだけで、結局なにひとつ「生産」することはなかったような気がする。


もはやこの日記を生産していることだけが、唯一の生産活動になってしまった。


ひょっとしたら、あの番組よりも視聴者は少ないかもしれないが、それでも自分が作りたいと思うものを作れるだけマシかも知れない。


しかし、なぜ人はこうも何かを「創る」ことにこだわるのか。
ただひたすら消費するだけの方が収支から見れば得なのかも知れないのに。


そして、ほとんどの野生動物は自覚としては「ただひたすら消費するだけ」にも関わらず大きなバランスで人間が創るあらゆる価値を凌駕するものを創造している。


同じ視点では人はひたすら「消費」し「破壊」しながら、すべての動物よりも「創造」にこだわっている。


なぜこのような矛盾になってしまったのか。


この日記でも時々「価値の創造」というテーマを扱う。
人間を動物からかけ離れた存在にし得たこと、あくなき「価値の創造」への邁進は結局のところ動物としての人間の最大の進化の証でもあるように思う。


それでも時々、車を運転していて思うことがある。


ボルネオの山中に群れをなす、遺伝学的にはほとんど同じ「仲間」と比べて、なぜわたしは、微生物の死骸の地質学的堆積物を大変な地中深くから堀り、巨大タンカーで何万キロも輸送し、精製し、貯蓄し、購入し、タンクからピストンに送って燃焼させ、金属の乗り物を動かすことができてしまうのか。


車を運転しているわたしはそのすべての労力に足る仕事をしているだろうか?


もちろん、していない。


にも関わらず車を所有し運転することができてしまうのは、野生動物がなにひとつ作っている自覚がないにも関わらず、自然という大きく複雑で創造性に富むシステムの一員として役割を果たしていて、そのシステムからわずかに食料という消費物を得て満足しているのとモデル的には同じことなのかも知れない。


システム全体から見れば、わたしが車を運転することと、わたしの仕事では「帳尻があっている」かも知れないが、わたしからはそれを見ることができない。


野生動物がひたすら自然というシステムの恩恵にただ浴しているだけなのと同じように、人も人間が作り出した小さな社会システムの恩恵にただ浴しているだけで十分なのかも知れない。


ひょっとしたら、そう実感することができるいい社会やいい会社もアリなのかも知れない。