曲がる

人とコミュニケーションするとき、時々ではあるが「曲がる」ことを意識して話をしてしまうことがある。
自分の意図する結論に導くためにあえて変化球を投げざるを得ないことがある。
そして、それはたいてい長くはうまくいかない。
変化球を多用すると、相手に真意が伝わりにくくなるばかりで、それを考えすぎてまたしてもより高度な変化球を投げてしまう。


そもそも相手が「曲がって」いることが問題なのだ。


「曲がる」とは、自明のことが理解できない現象を言う。
別のひとは「バカの壁」という言葉を遣うが、単純に乗り越えられない壁があるのとは違うように感じる。


例えば、非常に将来を嘱望された新人がある小さなミスをきっかけに「曲がって」しまう。今まで瞬時にこちらの意図を汲み取り、予想以上の仕事をしていたのに、なぜか「曲がって」しまうと今までと同様の筋道で説明しても通用しなくなり、行動も適切でなくなる。


しかし、必ずしも彼はサボっているわけではないのだ。


小さなミスがもとで、今までの判断に自信が持てなくなって、本人は深く考えて行動しているつもりになっているが、実際には同じミスを繰り返すことを恐れて曲解して行動をとってしまっている。将来を嘱望され、自信と期待を意識し過ぎるとこの傾向が強くなる。


実際、部下が「曲がる」ととたんに扱いが難しくなる。
誉めても、叱ってもダメである。
本人にも原因はわからない。


あまり追い詰めると更に「別な方向へ曲がる」ので要注意である。


これは恋人同士の間にもよくある。


「これは当然じゃない?」「これはあたりまえよね?」「前には自分でこうだっていったじゃない!」というような言葉が思わず出てしまうような、予想外の相手の反応は誰しも経験があるだろう。


気分で状況に対応する反応が違ってくるのは人間誰しもあるだろう。


しかし、自明の理を説いて説明しても理解を示さない。あるいは、一応の理解を示すものの枝葉末節にこだわってもっとも重要な部分を投げてしまう。必ずしも寝起きで機嫌が悪いとか、腹が減って短気になっている、のとは違う場合がある。


それはいろいろな経験がもとで、やはり「曲がって」しまったのだ。


恋人同士の関係では相手との「貸し」や「借り」の収支が複雑になり、もはや「損」なのか「得」なのかわからなくなってしまうことがある。ちょっとした妥協を迫られても大損している気分になるし、多少の貸しを踏み倒しても全体から見てチャラになっているような気がする。こういう感情は得てしてお互い様で相手も同じに考えているので、ちょっとした「貸し」も「借り」も、互いにもはや許せなくなってしまう。


基本にもどって「自明の理」で解決をしようと互いに考えても、なぜか「曲がって」しまう。


案外本人に悪気がないことも多い。


なぜ人は「曲がって」しまうのか。
どうやったらそれは治るのか。


ひとつには、「曲がりっぱなしに曲がらせておく」ことである。
結局、自明の理に反して行動していれば失敗も多いし、いくら行動してもいい結果が出てこなくなるので、さすがに自問せざるを得なくなる。
そうやって「曲がり」が自然と治っていくのを気を長くして待つのだ。


もうひとつ、それほど悠長に待っていられない場合には、曲がった思考の結果を突いて徹底的に追い詰める方法もある。
先ほど述べたように、そうすれば治る場合もあるし、あらぬ方向へさらに「曲がる」こともあるが、心を鬼にして間違っている間は徹底的に叩けばやがてまっすぐになってくる。


このとき、相手の思考を一時的に停止させ「おれについてこい」と「曲がってない」道を示して無理やり引きずっていく方法もある。
無理やりでも引きずっていけばやがておとなしくついてくる。
しまいには、引きずらなくても自分で歩き出す。


ただし、この方法には欠点がある。
このように矯正すると、結局自分で考えることをしなくなるので、柔軟性に欠け、なんでもかんでも指示を待つようになってしまう。
あるいは、状況が変化しても自分で考えているつもりになって突っ走ってしまう。


せっかく人が二人いるのに、なぜか一人で歩いているような気分になるし、後ろを振り返るとわざわざ一人ひっぱって歩いていることに気付いてとどっと疲れてしまうことにもなる。こんなことなら、一人で歩いた方がラク


さらに問題なのは、ひっぱっている人間が曲がっていたら目もあてられなくなってしまう。「それは違うのではないですか?」という問いが誰からも出なくなってしまうのだ。


「曲がって」しまったら、ほっておいたり、強制したりせず、ことあるごとに一つづつ考慮し、一緒に考えて「なぜ曲がるのか」を検討していく必要がある。


自明の理についての説明を何回繰り返しても「曲がった」ままでは無駄である。
まず曲がったまま説明をさせて見て、結論がおかしいことを指摘して、「なぜ曲がるのか」を考えさせなければならないのだ。


と理屈ではなんでも言えるのであるが、実際は今も「曲がり」との格闘中なのである。


よく「この世の中はすべて間違っている」と堂々と述べる人がいるが、この世のすべてが曲がって見えるとしたら、案外世直しは簡単である。


自分が曲がっている時には、すべての人が曲がって見えるので注意が必要だ。


客観的な「結果」を検証して、自分の曲がり具合を確認する必要がある。


いま、幸せでなかったら、たいていが自分が曲がっているのである。(ここだいじ)


ただ、答えをひとつひとつみつけながら進んで行かないと、ある方向から見ればまっすぐだが、別の方向から見るとめっちゃくちゃに曲がっているということにもなりかねない。


「曲がり」との戦いは続く。