?小さいものと大きいもの

寝ていて突然思いついたが、どうにもこうにもまとまらないことがある。最初イメージだけが先行して言葉にまとまらなかった間は、なにかノーベル賞並みの発見のようにも思えたのだが、なんとか言葉にしようと考えているうちにどんどん「あまりに月並みな」言葉に帰着してしまってどうにもうまくない。


突っ込みどころ満載だが、とりあえず大恥を承知で書いてみる。


それは、素粒子と宇宙を同時に見る、という考え方である。


素粒子→原子→分子→惑星→銀河→銀河集団→宇宙


試みとして、これをひとつのネットワークとして見る。


すると、左から右へは「構成順序」という一方向ネットワークになっていることがわかる。
素粒子が存在しなければ原子は存在しないが、原子が存在し得なくても素粒子は存在し得るからだ。(たぶん)
ある種の時間的支配の流れとみてもいい。
これは数学的な時間(t)を内包するがそれだけではない、それになにか記述を加えた概念で、これを構成順序と言う。
原子が構成するもの(例えば分子)が、原子を構成したりはしない。
これははっきりしている。


また、素粒子同士、原子同士、それぞれのスケール上では構成順序はない。


また、右から左へは「位置決定」という一方向ネットワークになっている。
逆に、素粒子の位置は原子が決定し、原子の位置は分子が決定している。しかして、すべてを内包する宇宙の位置がすべての位置を決定している。
ある種の空間的支配の流れがここにある。
やはりこれも数学的な空間表現にとどまらない。星が動くとき、それを構成する素粒子は否応無しに動く、という意味が含まれる。


そして、それぞれ同一のスケールではやはり影響がない。
(星同士が互いにぶつかるようなことを想像してはいけない。なぜなら、集合が動くときにその要素が否応無しに動くような位置関係にだけ言及しているからだ。集団を構成する要素の位置関係ではない)


それで一旦どう考えていいのかわからなくなり、次にこれらを抽象化してみようと思った。


要素→集合


という単純なパラダイムだ。


要素→(時間)→集合


要素←(空間)←集合


という簡単なマトリクスを考えてみる。


「時間と空間は本来同じ」という物理のテーゼをここにあてはめると、対称性があることが見えてくる。


集合ももう一つ大きな集合の要素と成りうるから、集合=要素とすると、うまいぐあいに時間=空間となる。


このとき、無視されたのは、スケールである。


われわれのあらゆる学問は、因果律を解明することに目的がある。


因果律というものは、「その時、そこに」それが存在しなければ成立しない。時間と空間に厳密に支配されるように思われる。


また、因果律にはスケール(階層)というものも関係するように思われる。


「その時、そこに、そのスケールで」それが存在しなければ因果律を語れないような気がするのだ。


しかし、時間と空間を語る場でスケールが言及されることはいままであまりなかったような気がする。


遡れば、スケールが言及されないと、先ほどのように時間と空間、極大と極小が同一になってしまうのだ。


スケールについてきちんと定義を進め、因果律を決定する第三の座標を定めれば、このような同一性から逃れられるかもしれない。


しかも、単純化したマトリクスを眺めていると、これは単に物理と呼ばれる科学だけのことではないようにも思える。


われわれ個人が要素となり構成される集合である社会との関係も、構成順序と位置関係が互いに一方向へと影響を与えている。(ような気がするが、集合の位置というのがいまいちつかめない)


そして、集団が集団を作り、そこにスケールが存在する。


例えば、今日の株価で日経平均は正確に語ることができるのにひとつの株価を語るとき日経平均との因果を語ると失敗する原因が、ここに存在するようにも思える。


また、われわれ個人と素粒子、社会と宇宙の同一性についてもなにがしか語れなければならないような気がするが、どうも定義から出発して定義にもどってくるような感じがするだけだ。


この問題については、またしばらく考えてみたいと思っている。