生きる意味

2chの哲学板で、これを問いかけるスレがある。


ざっと見ただけであるが、明快な回答は出ていないようだ。


意味、という言葉には2つの意味がある。


概念をあらわす「意味」と、価値をあらわす「意味」である。


まず、概念をあらわす「意味」を使って、「生きる意味」を考えてみよう。


これはすなわち、「生きるとはどんな概念か?」という問いである。


しかも、この問いかけは「生きている本人から発せられている」というところが重要である。
「ぼくが生きるとは、どんな概念なのか?」
という問いである。


では、この概念を持つ主体は誰だろうか?
ひとつは、本人であり、もう一つはそれ以外である。
そこで
「ぼくが生きるとは、ぼくにとってどんな概念なのか?」
「ぼくが生きるとは、あなたにとってどんな概念なのか?」
と問題が分岐する。


それぞれについて考えてみると


「ぼくが生きるとは、ぼくにとってどんな概念なのか?」
これは問いかけているのだから答えは明白だ。
「ぼくが生きるということの概念的な意味は不明、しかし知りたい」


「ぼくが生きるとは、あなたにとってどんな概念なのか?」
これはぼくを知る人によって変化してしまうだろう。
「わたしにとって君が生きるということの意味は不明、しかも知りたくもない」というのがわたしの答えだ。


では、価値をあらわす「意味」を使って、「生きる意味」を考えてみよう。


ここにも、当事者としての価値とそのほかの人にとっての価値がある。


「ぼくが生きるということのぼくにとっての価値はなに?」
価値とは利害である、ぼくが生きることの利と、ぼくが生きないことの害と、どちらかが説明できれば価値はある。
本人が考えてもわからないのだからその答えは明白で
「価値無し」
である。
自分に生きる意味があるかどうかを他人に問う、というのがそもそもナンセンスなのである。
自分にとって、自分の生がなんの意味もない、と思えば、おそらくその生にはなんの意味もないだろう。
価値を創造するもしないも、自分次第だし、その価値は自分にしか決められず、しかも、自分が死んだらその価値も消えてしまう。
ここで何度も書いたことだ。


では、そのほかの人にとってはどうだろうか?


センチメンタルな利害を答えに含めるなら、彼を愛する人や彼を知る世の中の人道主義者のほとんどは、彼にも生きる意味がある、というだろう。
なぜなら、彼が死ぬと悲しいからだ。


では、センチメンタルな利害を答えに含めなければどうだろうか?


先に答えを出すとしたら、それでも彼には生きる意味がある。


個に焦点をあてて、それぞれに「意味」をみつけることが困難な場合でも、集団として機能している場合には、それぞれ個別の生きる意味の総和がその集団の存在する意味と同等になる、わけではない。


個々の総和よりも、集団の方が大きくなることがありうるからだ。


わかりやすくするために意味を再び利害として考えてみよう。


さらにわかりやすくするために「害」について考えてみよう。


個々の人が個々に対して個別に「害」をなす、そのとき集団にとってその害は、個々の害の総和に等しいだろうか?


答えは、NO。


個々が個々に対して害をなす、ということが、ある一定の割合を超えたとき、社会システムが機能しなくなる。結果、個々の総和よりも遥かに大きな災悪が集団にとって降りかかってくるのだ。


ある程度の割合で若者が年金を払うのをやめると、年金制度全体が崩壊してしまい、支払いをやめた若者と同じ割合の受給者が被害を被るのではなく、受給者全体が被害を被るのである。


これは「害」を例にとって見たのだが、同様にして、例えほとんど社会にとって利益をなさない人でも、逆に社会にとって完全に依存している人でさえ、「個の総和ではなく全体」から見ると非常に大きな意味を持っていると言える。
非常に大きな、という言葉が誇張に過ぎるなら、「少なくとも彼が思っている以上の」でもいいだろう。


個々の「害」が集団全体に及ばないためには、個々の害の割合が一定以下である必要があり、それには無害な人がたくさん必要だ、といえばわかりやすいだろうか。
殺人事件や交通事故で社会が機能停止に陥らないのは、十分な余剰生存者があるからで、例え一見無意味な人でも、意味のある生をまっとうしようとする人が災難に陥る確率を引き下げる効果を持っている。
無政府状態となった国が、なかなか立ち直れないのは、混乱が社会の閾値を超えてしまっているからで、彼らの悲劇を思うなら、「個々が生きる意味」も非常に大きな意味があるといってもさして誇張ではないことがわかるだろうか。


いままで何度か書いていることだが、わたし個人の哲学としては、「わたしにとってわたしの人生の価値はわたしだけが決める」で十分である。
もちろん、社会システム上の意義はあるだろうし、家族には多少なりとも遺産として何がしか残すかもしれない。
物質として、また、摂理の一部として、わたしは常に宇宙と等価であることも知っている。(等価であることが有意義とは言わないが)
しかし、例え客観的に価値があっても、わたしはどのみち死んでしまうし、その時、わたしの生きた意味や価値だけをこの世に残して置いても、価値を認める主体が死んだあとではなんの意味もないからだ。


わたしのこんなわがままは、実は、かなりわがままだと言われても仕方がないのだ。