まちづくり

まちづくりと名前に冠した市民団体に参加している。
ただ、その場所はそもそも何をするという具体的目的を持っては居ない。それぞれ問題意識を持った個人がてきとーに幹事を務め、人を集め、てきとーにワークショップや研究会を行う、という団体だ。
そこでは寂れた商店街を活性化させる「空き店舗活用研究」だの、プチ観光スポットを探求して紹介する「○○百景」だの、「ロボット研究会」だの、「創業者支援を考える会」だの、と、てきとーにやっている。
この雰囲気はサンタフェ研究所のようでなかなかおもしろい。
フランクな雰囲気が災いして、議論が収束せず、なにひとつ成果を出さない研究会が多い、というのが泣き所だが、なんとか成果を出す会も出てきている。


その団体に入っているから、という特権はなにもなく、団体の人ではないひとも参加するし、幹事もする。団体に入っていると引落しで運営費がカンパされる、というだけだ。
大学の社会学部の教授やら、市民サービスにアイデアを求めた市役所の企画課だのという人も参加する。
行政提案という大仰なものではなく、企画課の個人のそこでの学習や研究の結果が、微妙に市政に反映されたりしておもしろい。議員先生が読み上げる提案書や条例文の原案を考えている人たちに直接影響を与えられるのが醍醐味である。
そのように協調的な団体なので、その団体が研究用に必要と要望すれば市の統計資料などや長期計画の草案などなかなかお目にかかれない資料に触れることもできる点も気に入っている。
行政の施策協議で指名する「××検討委員」だのとか言う「市民」は、こういう場所からスカウトされていくのだ、というカラクリもここで知った。


そこでわたしは「市の長期計画を考える」という研究会と「創業者支援」に参加している。創業者支援の方はお座敷がかかったので参加したという芸者のような立場だが、なぜかウェーラブルコンピュータの試作について意見を言ったりしている。


その団体に若い人たちもしょっちゅう出入りしている。
大学の教授から薦められて参加する学生もいるが、いっちょまえにNPOの代表になってはいるがそれだけでは食えていない貧乏な人やら、就職先をこんな場所に求めるのんきな人などだ。
中には熱血に市政批判など展開する者もいるし、まちづくりは新陳代謝が行われることだから、寂れた商店は潰れた方がいいと、ごもっともすぎて「だったらこんなところ来るなよ」とさえ言えない気分にさせてくれる若者もいる。


概して、正論で行政批判する人の掲げる改善案とやらは、過程無視の結果重視なことが多い。
社民党共産党の話に似ている。


この団体でつくづく思ったのは、行政には実際に動かせる部分と動かせない部分があって、動かせる部分は実に懸命に努力しているが、動かせない部分は膿み腐っているということ。
そして、動かせない部分が膿み腐ってしまった理由の大半が「特定の権益のため」ではないことだ。
実は、行政が特定権益を見限るときというのは、実に冷酷に見限るのだ。特に、権益がごくごく一部のところへ流れている場合は、市の担当者が変わっただけでも消えてしまう。
それより巨大で膿み腐るほど動かないところというのは、あまりに多くの要望に対してバランスを取ろうとして膠着してしまっていることが多い。
まっとうな市民やいわゆる社会的弱者や、特定権益に浴する人や、議員先生などが、それぞれにひっぱりあって身動きがとれなくなっている図が一番多い。


悪人を見つけて追い出せばすべてよし、というほど、簡単な図ではないのだ。
しかも、悪人は市役所の中にいるという切り口で攻撃されるのを恐れて、役人は揚げ足をとられないことに汲々としているのが現実だ。


例えば、絶対的な問題、財政の破綻のような、全体の利害をまんべんなく損なうような大きな問題が浮上してきたとき、はじめてこの問題をひっぱってきた綱が緩んでブレイクスルーが行われる。


長野県知事のような手法を否定するわけではない。
ただ、明らかにおかしい、という部分をいくらいじっても、全体の方向は定まらない、ということが言いたいのだ。


会社の経営も同じことが言えるが、部分最適化が全体の最適化に寄与することはむしろ少ない。
全体が「あっちへは行けない」と思っている方向へ誘導するための大きな意味での価値観の変革が必要で、それは個々の価値観や理想に固執することではないのだ。
しかし、個々の価値観や理想をこそ、行政は犯すことができないのだ。


研究会に参加していると、そんなことが薄ぼんやりと見えてくる。結局のところ、自分たちで努力してより大きな夢を見るか、人から見せてもらうか、しかないのだろう。


長野県知事の功績は派手な小技を駆使しつつ、全体に「そっちへ行く手がある」と共通認識を持たせられるか否かにかかっていると思うのだ。