団塊パワーをあなどるな

先日、例の「まちづくり」の会合のあと社会学の教授二人と会食をしながらいろいろと話をしていて気づいたことがあった。
その時の話題は、今後の景気回復は以前の技術立国再興となるか、ということだった。
わたしの結論はこうだ。
以前の技術立国、経済大国のシナリオは二度と使えない。
しかし、その点を理解して立ち回れば技術大国、経済大国、さらに情報大国、金融大国、サービス大国、への道もある。


そもそも、誰でも指摘することだが、戦後の(つまり戦後復興以降の)高度成長というのは、団塊世代の自作自演だったにすぎない。
恐ろしく潤沢で良質な労働力として投入され、発注しても発注しても仕事がこなせる異常な人口分布が世界から仕事を集め、やがてはその世代が国内市場をリードし続けることで技術の嵩上げを推進した。
技術が技術を呼ぶ好循環は、団塊世代という巨大な世代バンドがなければあり得なかった。日本の人口はアメリカの半分ほどではあったが、団塊世代の登場で若年労働力世代だけが異常に突出して、労働効率が世界のほとんどの国を凌駕してしまったのだ。(これを明確に示唆する資料を見たわけではないが、たぶんそうだ)
つまり日本は、他の国に比べて超高性能なエンジンを積んだライトウェイトスポーツ車だったのだ。その軽快な加速力が世界を魅了したのだ。


なぜ団塊世代はあんなにも働いたか、それは同世代がみな競って働いたからだ。団塊世代の世代内闘争がすべての原動力だった。常に仲間と競い、仲間と励まし合いながら、働きに働いた彼らこそが「経済大国日本」そのものだったのだ。


だからこそ団塊パワーはあなどれないし、そして残念だが同じようなシナリオは2度と通用しないと思うのだ。潤沢で良質な労働力は、今後中国やインドが主役となっていくだろう。技術が技術を呼ぶ循環もやがてはそちらへ移るかも知れない。


しかし、だからといってわたしは悲観しない。
例えば中国に対してさえ、我々は貿易収支を黒字化することができる。
キーワードは「持てる者がもっと持つ」。
中国を引きつけてやまない「ブランド=ニッポン」をいかに構築するかが重要だ。そして、中国のパートナーとして彼らの成長と歩調を合わせること。


団塊パワー以上のパワーがその国でいよいよ呻りを発しようとしている。彼らは富を一極集中する不平等政策を推進することで、超巨大トラックからスポーツカーを生み出そうとしている。
われわれはその循環の輪の中に入り込む必要がある。
もちろん、彼らは今後とてつもない挫折を味わうこともあるだろう。
経済基盤が効率化すればするほど、わずかな振れに敏感になってしまうのは歴史の必然だ。しかし、世界でもっとも金融政策がバカだった国がなにがしか彼らに適切なアドバイスをすることができるだろう。その点われわれの体験は貴重である。


さて、このページのリストでリンクしている「週間!木村剛」の記事のおかげで、前から書こうと思ったことをちょうどまとめる機会を得た。


氏は団塊世代が再び経済を牽引するかもしれない、と仰るがわたしはこれ以上団塊世代に過大な期待をするのはどうかと思う。
すでに団塊世代はインカムを失いつつある。
彼らには回収可能な投資を期待すべきで、消費力として使い捨ててしまってはいけないと思う。
もちろん、団塊世代にも富裕層と不労層はいるし、やはり世代バンドの影響で他の世代に比べればその絶対数は勝っているだろう。


しかしもうこれ以上団塊世代に頼ってはいけない、と思うのだ。
内需は「働いた分相応に」拡大していくべきだし、日本は団塊世代がもっとも働いた時に比べれば、もはやぜんぜん働き足りていない。


同じような労働はもはや無理なのだ。
それから脱却して、新たに考えなければならないのだ。