◎ウィルスメールはかく語りき(復刻版)
ここへの移転の際、意図的に削除した文章もあるが、ひとつだけ不注意から削除してしまったものがある。自分の書いたものを読む悪癖を持つわたしとしては、かなり気に入っていたものだけに、方々にLogを探してみた。グーグルのキャッシュにも、世界中のほとんどのページをログっているという例のhttp://www.archive.org/にも探しに行ったが、残念ながら見つけることはできなかった。とりあえず、記憶をたよりに再現してみる。
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毎日届く、ウィルスメール。
これが新種の生命体で、「なぜ自分は生まれたのか?」を必死にわたしたちに問いかけていたら?
わたしが、まだ小学生のころの夏休み。
法事で父の実家へたずねると、庭先で猫が生きたカエルをもてあそんでいた。猫はわざとカエルを放し、カエルは放されると必死で逃げる。カエルが逃げると猫はそれを捕まえ、再び離す。カエルはすでに腹を破られ、手や目玉も欠いていた。
傍目にも、もはやカエルは死んだも同然の存在であった。
それでも、カエルは放されると必死で逃げる。
彼は自分が徒労を行っていることを知らないのだ。
やがて、法要がはじまったので、その場を去った。
しばらくして、読経が終わって再び外へ出た。
猫もカエルもそこにはすでに・・・・と思ったわたしはギクッとなって立ち止まった。猫はすでにそこには居なかったが、カエルは土にまみれて死んでいたのだ。
子供ごころに猫を仕打ちを「命をもてあそぶとはなんて残酷なんだ」と思った。当時はまだ法要という宗教的な儀式のムードに純朴にのまれていたから、なおさら強くそう思った。
しかし、よく考えてみれば猫に残酷という概念はない。当然、命という概念もない。カエルを生命だとも思わず、ただオモチャとして自分の生命をまっとうさせる命に従って楽しく遊んだにすぎない。そこに罪悪感などあるはずもない。
カエルから見た猫はどうだっただろうか?
カエルは猫を「巨大な生命が自分をオモチャとしてもてあそんでいる」と理解しただろうか?当然、そんなことはない。たぶん、猫を生命体だとさえ認知しなかっただろう。彼にとっては自分を襲うものすべては理解不能な「死の運命」でしかない。そして、自分の生命をまっとうさせる命に従って、離されれば逃げようと必死で試み続けたに違いない。
カエルにとって、運命だった猫。
猫にとって単なるおもちゃだったカエル。
相互不認知の恐るべき隔たりがそこにある。
そして、それはいかにもふつうにそこにあるのだ。
この世に「神」が存在することをわたしは特に厭わない。
ただ、それがわれわれを常に見守り、また、われわれが幸福の頂点を極めることを望み、それが「神」の切望だと信ずることはどうしてもできない。
そもそも神がわれわれの言葉を理解できる保証などないし、神の言葉が理解できる根拠はどこにもない。
われわれのあまりのおろかしさに神が涙するとき、われわれはそれを福音と思うかも知れないし、神がほんの気まぐれで歌った声をわれわれは世界の終わりの予兆と感じるかも知れないのだ。
もしも、神にわれわれと同等の知能と同等の世界観があり、われわれに直接語りかけることができたとして、彼はなんと言うべきだろうか?
われわれは近い将来、バイオテクノロジーにてか、あるいはコンピュータシミュレーションをもってか、いずれ新種の生命を創造してしまうだろう。
そのとき、創造主たるわれわれは、その生命の言葉や苦悩を果たして理解できるだろうか?われわれは単にその信号を自分たちの世界観に投影して、一方的な解釈をしてしまうだけではないだろうか。
われわれは、その生命を幸福へと導くことができるだろうか?その生命体の幸福を共有できるデバイスが存在したとして、妻子をほっといてそれに接続し続けることが本当にわれわれの使命だろうか?
その生命が幸福の頂点を極めたとき、われわれもともに救われるのだろうか?週末にしでかした失敗をどう取り繕うかの方が、われわれには重大ではないか。
もしも、それにわれわれと同等の知能と同等の世界観があり、われわれが直接語りかけることができたとして、それになんと言うべきだろうか?
まして、その生命にわれわれを信仰することを本気で望むだろうか?
自らの紛争を解決する手段も持ち合わせず、多くの同胞の悲劇さえ見過ごし、ただ、日々必死で自分が生きることしかできないわれわれが。
毎日届く、ウィルスメール。
これが新種の生命体で、「なぜ自分は生まれたのか?」を必死にわたしたちに問いかけていたら?
感染する前にさっさと削除するのだ。
猫もカエルも互いに相手を理解することなどできないのだ。
ただ、自分の置かれた世界でもがき、その命をまっとうさせるために、日々必死で生きることしかできないのだ。