死亡率

テキサス州ダラス発――米国の都市の大気汚染が心臓病による死を引き起こす確率は、同じ汚染が原因の呼吸器疾患によって死に至る確率の2倍だということが、研究者チームにより明らかになった。

一般的に報じられているSARS(重症急性呼吸器症候群)の死亡率は4%。しかし多数の専門家たちは、米疾病管理センター(CDC)の算出方法に異議を唱えている。SARSはこれよりはるかに危険な可能性もあるし、それほど危険ではない可能性もあるというのだ。

βカロテンやビタミンEのサプリメントを投与した12件の臨床試験のデータをまとめたところ、βカロテンを飲んだグループの死亡率は飲まないグループより高く、ビタミンEを飲んだグループの死亡率は飲まないグループと変わらなかった。

このようなニュースは毎日毎日流れてくる。


しかし、考えてみると重要なことはひとつだけだ。


そもそも人の死亡率は100%なのだ。
有史以来死ななかった人はたったの一人もいない。


日本人の死亡率は100%だし、ソマリア人の死亡率も100%である。
日本では死の真相は巧妙に隠蔽されているが、実際には人の死が日本とソマリアで違うわけではない。


ならば死を確率で語ることになんの意味があるのだろうか?


もしかしたら、社会システムというのは、そこに参加する「人類全体」をリフトアップすることはできるが、そこに参加する「個人」を幸せにすることはできないのかも知れない。
日本人の生活のボトムと不幸な国の生活のボトムはあきらかに差があるし、トップも違う。しかし、個人の幸せはその範囲の上下運動によって決まってしまうからだ。


日本人はだれもソマリアに生まれたかったとは思わない。
ソマリアで死にたいとも(たぶん)思わない。
その格差の根底に、死亡率や死亡原因の違いがあるように錯覚してしまう。しかし、トップやボトムの範囲は個人の幸せには起因しない。


日本国内においても同じである。
死亡率に注視してさまざまな「死亡原因」から身を避けたとき、結局のところそれでも100%死んでしまうとしたら、ついにはわれわれは自らの死に方を選ばなければならなくなる。
いったい、どんな死に方なら納得がいくのだろうか?


日本の死亡の第一原因は「自殺」であり、ソマリアやコロンビアの死亡の第一原因は「殺人」である。


自ら死を選択できるというのは、それだけ他の死亡原因が低い証拠なのだろうか?
それとも自殺を選択した人には、死よりも恐ろしい災厄が降りかかったのだろうか?