自分で自分を傷つける

これは自分のある種の行動についての考察である。
いわゆる自傷や拒食、過食、浪費、アル中、浪費癖、淫乱、ギャンブル狂、暴走行為、薬物中毒、ひきこもりなどによって自分で自分を傷つける行為についての考察である。


もしその人がそれを孤島でも行うとしたら
それは趣味だし、自分の体は自分のものだから好きにすればよい。


自傷や拒食、過食、浪費、アル中、浪費癖、淫乱、ギャンブル狂、暴走行為、薬物中毒、ひきこもりはひとつの表現型なのである。


多くの場合、身近な人か、社会にその原因はある。


もちろん、身近な人が必ずしも悪人であるとか、すべての責任があるとか、客観的に見てそう言える場合がすべてではない。例えば、社会にその原因があるとしても、ほとんどの人はその社会と折り合いをつけてなんとかやっていたり、大きな恩恵を受けたりしているのだが、当人にとってはやはり社会が原因になることがあるのである。競争社会に生きてなにがしか得ようとすると個人の資質による限界があるので相対的に劣った人は当然普通に生きることさえ辛いだろうし、そもそも、実力主義社会では何も欲しくない人、何も夢を持たない人にとって普通に生きることが苦痛なのは事実だからだ。


こんなとき、原因を究明して解決しようと努力することが非常に迂遠だったり無意味だったり無理だったりして結局解決にならないのだろうと思う。


ふつうの生活がしたければふつうのひと並の結果を出せ、と、言うのは簡単だが全員それができればふつうの相対評価が上がってしまうのでやはり取り残されるひとはどうしても出てきてしまう。そんな自己責任論では解決できないのは明白だ。


同じように、身近な人に原因があるとしても、身近な人に欠点がなくても、当人の資質との関係の上で避けられないミスマッチは生じてしまうだろう。もちろん「身近な人に原因がある」その原因は当人にもあるのである。それで気がつくことができ、努力できる人はいい。だが、そのことをいくら論じても解決にはならない場合もある。そこであえて「身近な人に原因がある」と仮定しよう。しかも、その身近な人は客観的に見て大きな過ちはないとしよう。あるいは、大きな過ちがあったとしても、それを身近な人は認識できないかも知れないし、認識できたとしても克服できないかも知れない。
いずれにしても、そういったとき、どうしたらよいか?


離れて生きる


しかないだろう。下手な努力を繰り返しているよりはるかに話が早いように思える。


したがって、社会に原因があるとしたら同様に社会から


離れて生きる


のもひとつの解決方法だということがわかる。
ひきこもりは解決すべき問題であると同時に、解決策そのものである場合がある、ということなのだ。


最近ひきこもりがクローズアップされることが多いが、ひきこもりが増えた理由がわたしには非常に簡単に思えてしまう。
もし、時代や場所が違っていたら、彼らはひきこもる前に死んでいるか、路上生活を余儀なくされるか、なにがしかの施設で生活することになったのかも知れないのだ。ひきこもって生きるしかない人にとって、ひきこもれる場所があるのが現代であって、それはそれでよいのではないか、多少なりとも世の中が良くなった証拠なのではないか、とごく自然に思うのだ。
もちろん、この先にはもっとよい社会があって欲しい。いまの世の中もまだまだ改善する余地はある。
しかし、現状を否定ばかりする必要があるのだろうか、と思うのだ。