収穫逓増

荒れ果てた荒野に希望に燃える入植者A氏とB氏がやってきた。
彼らは仲良く隣同士で畑を耕し、わずかな麦を蒔いた。

それから一年後、A氏とB氏は互いに収穫を得た。

ただひとつ。A氏は、B氏よりわずかに多く、ほんの一握りの麦を余分に手に入れることができた。
それは、まったくの偶然だ。土地も環境も、二人の努力にもまったく差がないにも関わらず、ある程度の面積の畑を収穫したとき、収量がぴたり同じということは逆にありえない。ただそれだけの理由で、A氏はB氏よりわずかに多く収穫した。

そして、すぐ二人は次の収穫のために、食べるのに必要な量を残して、残りのすべての麦を畑に蒔いた。

数年後、A氏の畑はB氏の畑を完全に取り囲んでしまい、さらに広がり続けている。
B氏は入植当初とほとんど同じ畑から、ほとんど同じ収穫を得ていた。

たった一握りの麦は、一年でおよそ20倍の格差になり、さらにその格差が毎年20倍づつ広がっていった結果なのである。


これが経済学で言うところの収穫逓増の簡単なイメージだ。


最初はわずかな差でも大きなレバレッジがあれば急速に格差が広がってしまい、市場が占拠状態となる現象を指して言う。

アダム・スミスは、収穫逓減と完全合理性で経済は成り立っていると言った。
そして、近代の経済学はそれを基として成長してきたのだ。

収穫逓減とは、こういうことだ。

A氏が麦で大成功した。こういう話はよく伝わる。
そしてまたたくまに、国内で麦生産ブームが起こってしまう。
誰もが成功したいと思うからだ。
やがてこのような多くの人の努力の結果、麦の価格が暴落し、麦生産のうまみはなくなってしまう。
がんばっても報われないという法則が経済学では100年も信じられていたのだ。
(社会道徳と経済学が逆のことを教えるのはめずらしいことではない)


しかし、この収穫逓減は完全ではなかった。
VHSが性能やサイズで優位にあったベータを駆逐してしまったように、タイピングスピードでは最速を誇っていた親指シフトキーボードがタイプライターのキーがぶつからないためにわざと打ちづらく配置されたDFGHJキーボードを駆逐できず廃れてしまったように、ウィンドウシステムではアップルにはるかに出遅れたマイクロソフトが市場を制覇してしまったように、収穫逓増と言える現象はそこかしこに見られる。

多少不恰好でも、がんばれば報われるとこの現象は力強く言っている。


ただ、たいていは報われないことの方が多く、アダム・スミス死してなお侮りがたし、なのである。