◎異星人と人類は相互理解できるのに、あなたとわたしはどうなのか

人類と宇宙人の交流がはじまり、宇宙人は自分たちのすべての知識を授ける宇宙留学生を招待した。選ばれたのはあなた。


宇宙人の住む星へ長い旅の末、あなたは宇宙小学校の一年生に入学した。
知識の差は歴然なので一年生なのはしかたがないが、カリキュラムを見てあなたは絶句した。


「卒業予定500年後」


しかし、知識や寿命が決定的に違っていても、知的生命同志は必ず相互理解ができる。
それは相互理解の前提が「合理性」だからだ。
合理性は数学で記述できるほど普遍的だから、数学を理解できる知的生命同志なら必ず相互理解ができる。
(必ず相互理解するとは言っていない。あくまでそのつもりならそれが必ず可能だということ)


では、人同士の場合は果たしてどうなのだろう。
たとえば、あなたが恋人とつり橋を渡っているときに、突然つり橋が切れた。
つり橋にぶら下がっているのは、あなたと、恋人と、たまたまそこにいた妊婦。
あなたはどちらを助けるかの選択に迫られる。
合理性を優先すれば、1:1.5で妊婦を助けるべきである。
しかし、あなたは合理的な判断はできないだろう。


タイタニックが大ヒットしたのは、ディカプリオが合理的な判断をしなかったからだ。恋人をさっさと見捨て自分が助かるのが本来の合理性であるとしても。


では、合理性を前提としない関係で相互理解のような関係は成り立つだろうか。
そこで必要となるのは、相手の利害を受け入れ自分の利害と一致させることだ。
それは必ずしも合理的ではないが、受け入れることができれば、それが相互理解とおなじように振舞う。


ただし、


決して合理的ではないから無理をするとストレスはたまる。
また、互いの利害が衝突したときはダブルバインド(板ばさみ)に陥る。


恋愛の主導権を握る、とは、どちらの利益を優先させるか、ということだ。
「共感」は、自らの合理的利益を捨てて相手の利益を優先させるために発明された擬似利益である。
人が自らを犠牲にできるのは、その方が自分の利益な時だけだ。


合理性ではとてもそれを説明できないが「共感」はそれを可能にする。


「共感」は相手に利益を供与しても自分が利益を得ることができる。
合理性を超えた人間関係では、「共感」を使って擬似的に利害を一致させることがとても重要になる。


タイタニックのラストでは、ディカプリオは自らを犠牲にして恋人だけを助ける。
自らを犠牲にするストーリーが人々に感動を与えるのは、それが人間の関係を成立させる「合理性」を超えた「共感」の最も極端な例だからだ。
こうしたとき、人は助けられたヒロインよりも自らを犠牲にしたディカプリオに強く感動する。共感を受け取る人よりも、共感を与えた人の方が、より多くの共感を得られるのだ。(ここだいじ)
もし、ディカプリオがヒロインの犠牲で生き延びたら、あれほどの共感を得られたかどうか。きっとかなり困難だろう。


だが、ひとは自分の限界を超えた共感を求められたとき、相互理解を解消する。
「甘えるのもたいがいにしろ。信じられん!」というわけだ。


つまり、人間関係の幅は、自分の共感のキャパシティと関係がある。
「いつでも自分が損をしている」、と感じる人が、大部分の人と合理性にもとづく相互理解以上の人間関係が維持できないのは、このためだ。(中には合理性を前提とした相互理解さえできない人もいるが、これは論外、知的生命以下だ)


さらに、共感のキャパシティが奥深い人が万人に愛されるのはこのためだ。


最近は共感のキャパシティが奥深い人を「カモ」にして、身の回りをそういう人で埋め尽くすことが流行している。しかし、考えればわかるとおり、そういうことが流行すれば人類全体の「共感」の総量は減る。結果として人類全体の幸福感も減る。
そういうことが流行し、互いに競争すれば、結局全員が幸福貧乏になる。


ただし、自分の示す共感を2倍3倍に戻してもらうことを可能にできる人がいる。これをカリスマという。カリスマは自分の示した共感が相手にとっては2倍3倍になるので、カリスマが増えても人類全体の共感の総量は増える。
カリスマは共感を与える側なのである。一方的に得ているわけではない。
この境目は微妙だが、カリスマをめざすなら、相手が心底喜々として共感を示しているかよくよく観察する必要がある。


しかし、せめて共感で相手に与えたのと同じ利益が自分にあるなら、共感はしただけでも得である。
人にプレゼントをして、喜ぶ相手と同じくらい自分も嬉しくなれるなら、与えることは与えられることに匹敵する。


損ばかりしている人が幸せそうに見え、自分の利益ばかりを言う人が不幸に見えるのは不思議でもなんでもなく、このようにごくあたりまえの現象だ。


与える人が、結局は一番得なのだ。